暇工作「課長の一分」

             人知れず闘う人々


 「彼女、いま会社と裁判中なんですよ」

 ある損保会社に勤務する友人を職場に訪ねたときのことだ。コーヒーラウンジで雑談中、たまたま向うの席に座っている女子社員の方に小さく顎をしゃくって見せながら友人が小声で囁いた。

 「争点はなに?」

 「詳細はよくわからないのですけどね。セクハラやパワハラが裏にあったという噂もあるけど、やっぱり待遇(年俸)問題らしいです」

 「労働組合はタッチしていないの?」

 「ええ、まったく…」

 

 聞けば、社員と会社間で進行中の訴訟は他にも3件くらいあるという。それらは連携することなく、別々の案件としてバラバラに行われているそうである。

「まだほかにも私の知らない訴訟もあるかもしれませんが…」

 そんな時代になったのかと、暇はあらためて感慨を覚えた。というのは、かつて産業別単一組織としての労働運動が盛んだったころなら、可視化されない形で個人が企業と争うなどというスタイルは考えられなかったからだ。要求は職場会などで全員が共有できた。労働組合も積極的に取り上げた。

 「現代の労働組合への信頼性を反映しているのかも…」と友人は言う。

 たしかに。労働組合があまり頼りにもされず、信頼もされていないということの裏返しかもしれない。労働組合に訴えても、労働組合が労働者管理組合としてたたかいを抑えることも考えられる。いや、多くの企業労組はほとんどそうなっているではないか。だから個人でたたかいを起こさざるを得ないのかもしれない。しかし、労働組合がどうであれ、自分の身に起きたことを働く者や弱者への共通の攻撃だと受け止め、他者と連帯し、力を結集していく共同戦線を張ること、少数派から多数派への道の追求することはできるはずだ。しかし、どうも、これらの個人争議は内に篭ったたたかいであって、個人の怨念は感じられても、社会的広がりは見えにくい気がする。

 だが、それがどうしたというのだろう。理想化された運動論のシナリオとは外れているという形式論で突き放すだけでいいのか。まずは、なにより、一人でも闘うという個人意識の高まりをポジティブに受け止めるべきではないか。個が自分を高めない限り、いくら集団に結集しても集団の力量アップにはならない。自己の意思を持たず権威に従うだけの「権威主義的パーソナリティ」ばかりの集団ほど危険なものはないのだから。

 人知れず密やかに闘っている人たちに培かわれた個性的なパワーは、かならずどこかに保存され、どこかで広がり、長い目で見れば必ずや社会進歩に寄与するだろう。そう、暇は信じたい。