「盛岡だより」(2026.7
)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
当たり散らすな鋭敏に斬れ
物騒な題名だが、社会・政治について意見を主張し、その事象を評論するときの心得である。
保守派の論客だった谷沢永一(1929~2011 国文学者・文芸評論家・書誌学者)が、『紙つぶて 二箇目』(1981年 文藝春秋)の本のなかで、これを論じている。
1979 昭和54)年のコラムにはこうある。
『あっち向いてこっち向いて、上品に眉をひそめ、格好よく首をかしげた憂い顔で、すべてを厳かに抽象語で批判するけれど、実際は誰のご機嫌をも損ねないよう自衛と保身に汲々たる慎重は、読者に嫌厭の情をおこさせるのみである。……いかに万巻の書を読むとも、自家用の咀嚼を経由せぬ建前の御託宣は無意味である』
古い文体で読みにくいが、ようするに、いろいろ書いたところで誰かの顔色を伺うような文章では読者に嫌われます。知識が豊富だとしてもしっかりした自分の意見を基準にして書かなければ意味がありません、といっている。
『放言の声高は、説得の浸透を意味しない。……批評コラムをめざす者には、読者に有無を言わせず感得させる居合抜きの工夫が必要である。それには対象を一閃に描写し分析する謙虚な辣腕が必須である』
感情にまかせて当たり散らすようでは読者は納得しない。納得してもらうには、対象を正確に描き、居合のように鋭利に斬らなければなりません、ともいう。
コラムは、エッセイのように個人的な意見や視点を盛り込みながらも、レポートのように読者に有益な情報や考えを提供するものである。「情報」と「個性」のバランスがとれた文章形式といえるだろう。新聞や雑誌の重要なコンテンツとなっているのは、専門家や著名人が自分の経験や知識を活かして書くことが多く、そのテーマに対する筆者独自の視点と考察が、読む人の興味を引きつけるからである。
時評コラムを読むと、何を言っているのかよく分からないもの、どっちつかずで中途半端なもの、感情的で品がないものもあるが、膝を打って「同感!」と言いたくなるもの、モヤモヤをスパッとあざやかに一刀両断して「うーん」と唸らせるものも多く、爽やかな読後感を覚えるものである。
爽やかなそれらは、どれも事実の正確な把握とその深い洞察を自分の哲学で迷いなく論じている文章である。氏がいう「鋭利に斬れ」とはそういうことだろう。
私は、ある団体の機関紙に毎月1100字ぐらいの「エッセイ」や「コラムらしきもの」を書いている。与えられたこの欄は、書く内容に制限や条件はなく、何を書いてもよいことになっている。だから、そのつど思いついた題材で好き勝手に書いてきた。だが、読者は社会や政治に関心を持っている人たちである。たまには、社会や政治のコラムも書かなければならないと思って、それらしきものも書いてきた。
それがますます難しくなってきている。
今はいろんな情報がネットなどで次々と出てきて更新も早い。その「解説情報」もすぐに出回る。自分の中身の薄い文章が活字になったころは、すでに新味のない「二番煎じ」の評になってしまう。すでに世間の「常識」になったような評を書いたところで、それは氏のいう『無意味な御託』なのである。
回りくどくなったが、これが私の「気の利いたコラムがなぜ書けないのか」、という言い訳である。