今月の推し本

 

 岡本 敏則            おかもと・としのり 損保9条の会事務局員

 

 

 

 

      『失敗の本質 日本軍の組織的研究』 中公文庫 とー18ー2            

           


 

  1980年、戦史に関する研究プロジェクトがスタートした。メンバーは戦史研究の杉之尾孝正(1936年生 防衛大学教授)、鎌田伸一(1947年生 防衛大学教授)、野中郁次郎(1936年生 一橋大教授)、戸部良一(1948年生 国際日本文化研究センター教授)、村井友秀(1950年生 防衛大学教授)、寺本義也(1942年生 早稲田大学教授)の六名。研究テーマはノモンハン、ミッドウエイ、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄の六作戦を失敗事例とし、日本軍の組織特性の分析をした。19845月ダイヤモンド社から出版。研究会は先の戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ。現在歴史学界では「アジア・太平洋戦争」と呼ぶのがほぼ定説になっている。本書は学術会議会員を任命拒否された加藤陽子東大教授も推奨している。

 

 Ⅰノモンハン事件

 日本軍は、満州事変後、満州国の支配を通じて、直接国境を挟んでソ連・外モンゴル軍と対峙するようになり、国境画定のための満州里会議も実を結ばず、昭和14年の5月から8月にかけて死闘が繰り広げられた。日本軍は、ソ連軍の圧倒的火力の前で戦死7,696名、戦傷8,647名、生死不明1,021名、計17,364名の兵士を失った。ソ連・外モンゴル軍も戦死・戦傷合わせて18,500名の兵士を失った。


 Ⅱミッドウエイ海戦

 昭和1765日、日本のミッドウエイ攻略作戦に伴った海空戦が始まった。連合艦隊司令長官は山本五十六。海戦に参加した兵力。日本―空母4・戦艦2・重巡2・軽巡1・駆逐艦12。米国―空母3・重巡5・軽巡3・駆逐艦17。損害、日本―空母4・重巡1・航空機約300。米軍―空母1・重巡0・駆逐艦1・航空機147。米海軍情報部は、日本海軍の暗号解読に成功したのに、日本海軍は解読できなかった。レーダーについても実用化の段階で顕著な違いがみられた。日本は、空母の飛行甲板の損傷に対する被害極限と応急処置に関しては、ほとんど研究、訓練が行われていなかった。米ヨークタウンは珊瑚海海戦で大破したが三日間の修理で本海戦に出撃した。


 Ⅲ ガダルカナル作戦

 昭和1787日~1827日。ガダルカナル作戦は、大東亜戦争の陸戦のターニング・ポイントであった。海軍敗北の起点がミッドウエイであったとすれば、陸軍が陸戦においてはじめて米国に負けたのがガダルカナルであった。ガダルカナル島撤収作業は、214日、7日の三次に分けて毎回駆逐艦20隻で実施された。ガ島に投入された将兵約32,000名の内、戦死は12,500名、戦傷死1,900余名、戦病死は4,200余名、行方不明は2,500名。海軍では駆逐艦19隻が沈没、飛行機は約850機が損失した。米軍は戦闘参加将兵60,000名のうち戦死者は1,000名、負傷者は4,245名、餓死者は0であった。


 Ⅳインパール作戦

 大東亜戦争遂行のための右翼の拠点たるビルマの防衛を主な目的とし、昭和193月に開始されたが、莫大な犠牲(参加人員約10万名のうち戦死者約3万名、後送された戦傷及び戦病者約2万名、残存兵力約5万名のうち半分以上が病人であった)。

 作戦が中止されたときには、ビルマの防衛自体も破綻していた。なぜこのような杜撰な作戦計画が上級司令部の承認を得、実施されたのか。特異な使命感に燃え、部下の異論を押さえつけ、上級司令部の幕僚の意見には従わないとする第15軍司令官牟田口中将の個人的性格、またそのような彼の行動を許容した南方軍司令官河辺大将との「人情」という名の人間関係重視、組織内融和の優先であろう。


 Ⅴレイテ海戦

 レイテ海戦は、世界の海戦史上でも特筆すべき最大級の規模のものであった。戦闘は、東西600浬、南北200浬という日本全土の約1.4倍に相当する海域で、昭和191022日から26日まで四昼夜にわたって繰り広げられた。日本の艦隊総力は、戦艦9、空母4,重巡13、軽巡6,駆逐艦・潜水艦の総計63隻。米軍は軍艦だけで170,上陸用艦船700隻、まさに大艦隊決戦であった。損害は、日本、戦艦3(武蔵を含む)、空母4、重巡6、軽巡4、駆逐艦11,潜水艦6.米軍は、小空母1、護衛空母2、駆逐艦3であった。


 Ⅵ沖縄戦

 大東亜戦争において硫黄島とともにただ二つの国土戦になった沖縄作戦は、昭和2041日から626日の間、牛島中将麾下の第32軍将兵約86,400名と、バックナー中将麾下の米軍第10軍将兵約238,700名とが沖縄の地において激突し、戦死者は日本軍約65,000名、住民約100,000名、米軍12,281名に達する阿修羅の様相を呈した。日本軍の作戦目的、決戦か持久か、航空優先か地上優先かといった作戦の根本的性格をめぐる対立が存在し、大綱をこそ掌握すべき上級統帥は、その対立の存在を見過ごしたばかりでなく,本旨に反して米軍上陸後の作戦指導の細部に干渉せざるを得ない事態に陥った。
 

 ◎失敗の本質

 ①日本軍は六つの作戦すべてにおいて、作戦目的に関する全軍的一致を確立することに失敗している。いくつかの陸海協同作戦も含まれていたが、往々にして両者の妥協による両論併記的折衷案が採用されることが多かった。作戦目的の多義性、不明確性を生む最大の要因は、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに終結させるグランド・デザインが欠如していたことにある。その結果、日本軍の戦略目的は相対的に見てあいまいになった。この点で、日本軍の失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的論理によって漸次破壊されてきたプロセスであったということができる。このプロセスは、戦争の開始と終結の目標があいまいであるという事実によって、実に戦争全体をおおっていたのである。そもそも米国の対日戦略の基本戦略は、日本本土の直撃、直接上陸作戦による戦争終結にあった。
 ②日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができた者はほとんどいなかった。個々の戦闘における「戦機まさに熟せり」、「決死任務を遂行し、聖旨に添うべし」、「神明の加護」、「能否を超越し国運を賭して断行すべし」などの抽象的かつ空文嘘字の作文には、それらの言葉を具体的方法にまで詰めるという方法論がまったく見られない。したがって、事実を正確かつ冷静に直視するしつけをもたないために、フィクションの世界に身を置いたり、本質にかかわりない細かな庶務的仕事に没頭するということが頻繁に起こった。陸軍では、士官学校出身の正規将校のなかからとくに優秀なものが選抜されて陸軍大学に入学した。陸大はもっぱら高等幕僚を養成する機関として存在した。卒業生は陸軍内部の超エリートとして、大部分が参謀に任命され、さらにそのほとんどが将官まで昇進した。