斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」


 

       

     若者むしばむ「努力不要論」

 

 


 さいとう・たかお 新聞・雑誌記者を経てフリージャーナリスト。近刊「『マスゴミ』って言うな!」(新日本出版、2023年)、「増補 空疎な小皇帝 『石原慎太郎』という問題」(岩波現代文庫、2023年)。「マスコミ9条の会」呼びかけ人。


  

 ある会合で、東北某県の市長さんと出会い、こんな質問を受けたことがある。

 「若者が夢を持たないようにできないものでしょうか」

 ギョッとした。政治家は普通、この逆を言うものだと思い込んでいたから。

 だが彼は語るのだ。大志を抱いて都会に出たものの、日々の生活に追われて夢のとば口にもたどり着けない。でも諦めきれず、周囲の目が恐くて帰っても来られない。

 そんな若者をたくさん見てきた。本気で努力する才能に恵まれていない子は、なまじ夢なんか持たないほうが幸せになれるんじゃないか…と。

 わかるような気がしてきた。政策的にどうこう、なんていうのは論外だけど、今後はうかつに夢を持てと勧めるのは控えよう、とも思った。

 あれから10余年。この間には「夢を持たない生き方」や「努力不要」をうたう書籍がいくつも出版された。SNSではもはや主流の議論と言って過言でないかもしれない。

 問題は大元の発想だ。近年の潮流は市長さんの(よく言えば)〃親心〃的な思いとはかなり離れてきてしまっているような。主な論者として名が挙がる中野信子、ひろゆき、カズレーザー、椎名林檎といった面々の上から目線、体制擁護的な芸風で共通しているのも気になる。

 書籍や講演などで「夢などいらない」と説く人々は、だが多くの場合、逆の生き方をしてきた人である。努力なしに本は書けないし、そもそもインフルエンサーになること自体が不可能だ。

 だからうのみにしてはいけない。なのに努力を口にする上司を「昭和の遺物」呼ばわりで、「コスパが悪い」と遠ざける若者がいかに多いことか。

 要は単なる骨惜しみ。本来なら頑張れる人までが頑張らないで、だから評価を落としては切り捨てられていく。

 これもまた新自由主義に支配された時代と社会の、いかにもな自己責任論なのか。