今月の推し本

 

 岡本 敏則            おかもと・としのり 損保9条の会事務局員

 

 

 

 

      『江戸町奉行所与力・同心の世界』 滝口正哉岩波新書2099              

           


 

 著者の紹介から。1973年生まれ、早稲田大学卒業、現在徳川林政史研究所特別研究員。著書に「江戸の祭礼と寺社文化」「千社札にみる江戸の社会」ほか。奉行所を舞台としたテレビドラマでは「大岡政談」「遠山金四郎」「八丁堀の七人」等があり、岡っ引きでは、神田明神下の「銭形平治」、人形町の「人形佐七」がある。極めつけは、池波正太郎原作の「火付け盗賊改め方長官長谷川平蔵」を主人公にした「鬼平犯科帳」だろう。

 「鬼平」を見てみると、当時の身分がわかる。鬼平が役宅の座敷で妻久栄相手に一献やっていると、すっと上がれるのは筆頭与力の佐嶋など与力。筆頭同心の酒井やウサギこと木村忠吾など同心はまず廊下で控え、平蔵の「まあ、上がれ」の声がなければ座敷に上がれない。まして密偵のおまさ、彦十、五郎蔵,粂八はお庭先で控えるしかない。現在で例えれば、十津川警部・杉下右京が与力で、部下の両亀さんは同心であろうか。

 

 ◎町奉行の役割=「幕府の爪牙となり格老を補佐する重職にて、寺社奉行・町奉行・勘定奉行の連署して内外の政事法律の制定悉く評議し上裁を仰ぎ。評定所一座役人と唱えてご老中、若年寄に次ぐ重き役人なり」。町奉行は老中支配で、3,000石クラスの中級旗本が任じられる役職である。他の奉行より権限が広く、勘定奉行と並ぶ旗本の最高職であった。

 

 ◎身分と職務=与力・同心は町奉行所の、いわば実務官僚であった。彼らはいずれも御家人身分であり、旗本のように登城して家督を受けるということはなく、基本的には,その身一代に限って雇用される不安定な身分であったが、事実上は世襲といってもよい状態であった。与力は南北奉行所各25騎で、騎馬に乗る格を持っていた。同心は南北100人ずつで、宝暦年間に20名ずつ増員された。

 

 ◎給料=与力は名目上200石を基本とする知行取であり、同心は蔵米取りで30俵(30石)二人扶持を基本とする蔵米を春・夏・冬の三季に分けて幕府の米蔵から受け取っていた。与力は、下總国の葛飾郡・千葉郡・香取郡・埴生郡・匝瑳郡などに与力給地という知行地を持ち、南北各5,000石、合計10,000石を共同支配していた。某与力の家計を見ていくと、支給される米200石=200俵の内残った75俵を当時売却すると30余両となる。また与力は出役という臨時の仕事があり、高田馬場・上野山内の流鏑馬御用、日本橋四ケ所の橋普請の監督、三社祭等の警備で年間約62両の褒美金を得ている。また大名家からの盆暮れや節句にもたらされる祝儀や付け届けなどを含めると、年120両の収入がある。支出では、使用人の雇用、与力となれば下男3人、下女2人、小女1人への給金、衣食費、薪・炭代、子供の手習いや芸事の謝礼など年間74両の支出。差し引き年46両の余剰がある。維新時に代々貯めた金が数万両に及ぶ与力もいたという。与力の余得がいかに大きかったがわかる。

 

 ◎住まいー組屋敷=職務により編成された組内の同僚数十人を一括にまとめた屋敷地を幕府から拝領しており、そこにほぼ同一の区画を短冊状に割り当てられていた。下谷や牛込の組屋敷周辺は「御徒町」の通称があったほどだ。享保4年(1729年)以降、与力・同心は八丁堀の南茅場町・亀島町・北島町・岡崎町辺り(現中央区)に組屋敷を構えている。与力の組屋敷は南が合計8,551坪、北が6,897坪、組屋敷の広さは与力が一人あたり300坪前後。同心は80~90坪ほどであった。与力は敷地内に医者や学者・盲人(座頭・勾当)などに貸し出し収入を得ていた。同心は長屋を建てて町人たちに貸家経営をしており、そのために家守(大家)を置いていた。「必殺仕事人」の同心中村主水は「八丁堀」と呼ばれていた。

 

 ◎奥様ありて殿様なし=町人たちは与力の妻を旗本の妻と同じように「奥様」と敬語を用いて呼び、主人を「旦那様」読んで「殿様」とは呼ばない。江戸時代では、御家人の妻を「御新造」と呼ぶのが通例である一方で、「殿様」は御目見以上の身分に使われる呼称のため、御家人身分である与力がいくら羽振りのいい振舞いをしていたとしても、「殿様」とは呼ばなかったのである。長谷川平蔵は「殿様」。

 

 ◎女湯に刀掛けがある=八丁堀の町人地の湯屋では、男湯は朝から混みあうが、女湯が混むのは午後から夕方にかけてであったので、与力・同心たちに日頃からお世話になっている地元の人々はその礼として、朝は利用者の少ない女湯を開放した。そして刀を差してくる彼らのために、朝に限り女湯に刀掛けが用意されていたのである。湯屋に毎年1俵半の米(90キロ)を謝礼として渡していた与力もあった。

 

 ◎拷問=奉行所の取り調べを行う職種を「吟味方」と呼ぶ。そのノウハウは口伝で相伝されていった。①拷問はみだりに行ってはならず、取り調べを重視すること。また、取り調べも私情を挟まず公正に行うこと。②相手が何者であっても強い語気で取り調べをしないこと。③拷問にかけるべき罪状は、享保7年(1722年)に人殺し、火付け、盗賊に定められ、元文5年(1740年)に関所破り・謀書・謀事が加えられた。④拷問は必ず同役の者が立ち会い、監察役の目付臨席のもとで行うこと。⑤罪人を拷問する際は情をかけてはならない。⑥女は男と違いさまざまな手を使って罪を逃れようとするので、その責め問いは最も注意をすべきことである。等々。「火盗改め」は、取り調べの厳しさで知られ人々に恐れられていた。明治大学駿河台キャンパスに博物館があり、拷問・責め具も展示されている。無料。

 

 ◎人足寄場=寛政2年(1790年)佃島に隣接する石川島に、長谷川平蔵の建策で設置された幕府の授産施設であった。無宿者や刑余者などを収容し、大工・紙漉き・米搗き・藁細工・油絞りや、土木普請などに従事させていた。敷地面積16,030坪のうち約3,600坪が寄せ場施設で、多いときは600名ほどが収容されていた。この人足寄場を管理するのは寄場奉行で、その下に元締役同心3名と下役同心32名が配置されていた。