前田功            昭和サラリーマンの追憶

                                                                                

  

      「損保のなかま」とウィキペディア

       


 

 

 まえだ いさお 

元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表 


 何かを調べるとき、かつては辞書や百科事典を開いたものである。それが今では、ほとんどの人がインターネットで調べるようになった。実に便利な時代になった。

 検索の方法は人それぞれだろうが、私の場合は主にChromeを使っている。最近、その画面に「AIモード」という表示が現れるようになったのに気づき、試しにクリックしてみた。

 

 従来の検索は、関係ありそうなサイトをいくつか表示し、情報の「場所」を教えてくれるにすぎなかった。これに対してAIモードは、情報をその場で要約し、こちらの意図を推測して直接答えを返してくれる。いくつものサイトを見比べる手間が省けるのだから便利である。

 

 これまでは、Chromeで大まかに調べたあと、さらに詳しく知りたいときにはウィキペディアを見る、というのが私の習慣だった。ウィキペディアは、信頼できるオンライン百科事典であり、質・量ともに史上最大規模の「誰もが無料で読める百科事典」である。

 その特徴は、ボランティアによって維持されている点にある。特別な資格がなくても執筆や編集に参加でき、投稿された内容は自由な改変が認められている。そのため、他の参加者が内容を確認し、次々と加筆・修正が行われる。論争のあるテーマであっても、こうした積み重ねによって情報の質が保たれ、更新されていく仕組みになっている。

 誰もがアクセスでき、自由に利用できるという意味で、ウィキペディアはまさに「知のコモンズ(公共財)」の象徴と言ってよい。独学の道具としても、最新の動きを知る手段としても、これほど役に立つものはない。実際、月間の閲覧回数は150億回に達するといわれている。

 

 ところが、このウィキペディアの閲覧回数が減少しているという記事を目にした。AIによる要約が普及したことが一因らしい。AIが答えをその場で示してしまうため、元の記事までたどる人が少なくなっているのではないか、という指摘である。そう言われてみれば、私自身も、AIモードの答えで納得してしまい、ウィキペディアを開く機会が少なくなっている気がする。

 

 そこで気になり、ウィキペディアに掲載されている自分の関わる項目――町田市立つくし野中学校いじめ自殺事件――を久しぶりに見てみた。この十年余り、特に加筆や変更はなかったはずだと思いながら読み直してみると、思いがけない変化に気づいた。

——本文は変わっていない。しかし「外部リンク」の欄が、この一年ほどの間に更新されているのである。

そこには、「損保のなかま」に掲載された私の記事が、次のように記載されていた。

前田功「昭和サラリーマンの追憶」―『損保のなかま』連載記事

「お稚児さん人事」騒動(2024年12月号)、「学校・教育行政との闘い(概要)」(2025年2月号)、「『大人のいじめ』と闘った同志だから」(2025年3月号)

 

 おそらく読者のどなたかが、ボランティアとして加筆してくださったのだろう。こうして誰かの手によって記事が少しずつ手入れされていることに、あらためて気づかされた。ありがたいことである。

 

 AIの進化によって情報収集が便利になるのは歓迎すべきことだが、その一方で、ウィキペディアのような基盤が衰えてしまうのは心配である。もし、こうした知識の基盤が弱くなれば、AIの質にも影響が及ぶのではないか。AIは知識を生み出しているというより、既存の知識を編集し、翻訳し、要約している存在に近い。言い換えれば、ウィキペディアが「知の源泉」であるとすれば、AIは「知の編集者」とも言えるだろう。

 同時に、こうも思った。もし人々がウィキペディアを訪れなくなれば、このような営みは次第に細っていくのではないか。

 AIモードの普及によって、AIによる利用は増えても、人が直接ウィキペディアを訪れる機会は減っていくかもしれない。その結果、閲覧や寄付が減り、活動が細っていくとすれば、いずれAI自身も困ることになるのではないか――そんな気がする。

 

 私は、ウィキペディアは「知のコモンズ(公共財)」であり、AIはその上に成り立つサービスだと思っている。公共財を維持する責任は、利用する側にもあるはずだ。

 

 この知のコモンズがこれからも続いていくよう、利用するだけでなく、何か貢献しなければと思う。私自身がボランティアとして記事に加筆したりするのは難しそうである。私にできるのは、寄付くらいかな。わずかだが、やろうと思う。

 小さな力だが、それがこの共有財を支えることになるのであれば――。