今月の推し本

 

 岡本 敏則            おかもと・としのり 損保9条の会事務局員

 

 

      『日本文化論』はどう創られてきたか  大塚英志 集英社新書1278              

           


 

 著者の紹介。1965年生まれ、筑波大を卒業、現在は国際日本文化センター名誉教授。専門領域は戦時下大衆文化研究。著書に『大政翼賛会のメディアミックス』(平凡社)、『大東亜共栄圏のクールジャパン』(集英社)ほか多数。本書は写真を中心に戦前のメディアを語る。新書としては470頁を超える大作だ。戦前、殆どのメディア関係者は、ソ連の映画監督エイゼンシュテインの「モンタージュ論」に影響を受けた。モンタージュ(MONTAGE、フランス語、組み立てを意味する)とは「映画の編集において『カット』と『カット』をモンタージュすることで単純のカットでは持ちえない上位の意味を生成する弁証法的手法」。特に「戦艦ポチョムキン」(1925年)における、オデッサでの階段を乳母車(あえて)が勢いよく下っていくカットが有名。それ以後多くの監督に採用され、コッポラ監督の「ゴッドファーザー」(1972年)でも同じシーンがある。1937年のパリ万博の日本館、コルビジェ的建築のパビリオンにおいて、「観光日本」と題する写真壁画が展示された。「こいのぼり」、「鎌倉大仏」、「舞子」、「富士山」等がコラージュされていた。そういえば、「損保のなかま」トップページも組み写真だ。戦時下、軍部に登用された写真家に、戦後も大御所として君臨した、木村伊兵衛、土門拳、名取洋之助らがいる。
 

  ◎戦後の文化史を担う人物が参画した東方社と報道技術研究会=(「東方社」―1942年から1945年まで対外宣伝誌『FRONT』を発行した陸軍参謀本部の直属出版社。「報道写真研究会」―戦時下に国策プロバガンダ(戦意高揚、増産運動)を担った広告技術者による専門集団)。「FRONT」の東方社が戦後改めて注目を浴びたとき、多くの人々を驚愕させたのはその構成員だった。その大半が戦後の文化史、メディア史に名を残す重鎮だったからだ。例えば文化人類学者の山口昌男は、東方社の理事の中に林達夫、岡正雄という自身が師事した人物が交っていたことに困惑する。林は戦後に限って言えば中央公論社や角川書店に顧問的な立場でかかわった後、戦前の教養を戦後世代にブリッジした特異な教育機関である鎌倉アカディミアを経て、明治大学で教鞭をとりもした。平凡社の顧問ともなり、出版とアカディミア双方を生きたように見えるが、むしろ大江健三郎,中村雄二郎、高階秀爾、そして山口昌男といった岩波系知識人から師事された人物としてこそ記録される。大江は林の死に際してその知性を「精神の多面体」と形容した。林は東方社の二代目理事長でもある。戦前に目を移せば、第一高等学校時代の同級生に安岡正篤、京都帝大時代には友人に谷川徹三、三木清がいた。岡正雄は柳田國男にとっては例外的なアカデミズムの弟子で、一時は柳田の成城の書庫と寝室しかない新居に愛犬とともに同居したほどだが、離反し、ウィーンでナチスドイツの政策科学と化した民族学/民俗学を修めた後、これを日本に持ち帰っている。戦後は80年代に流行したいわゆる「異人論」の祖として、他方では柳田國男の批判者としても知られる。岡に対しては、山口は「学問的には私のパパ」とまで言う。その両者に山口は彼らの言説から「なんとなく外され」ていた戦時下の姿を「FRONT」を通じて知り、驚きを隠さなかった。さらに東洋史・民族学者の大家で戦後のシルクロードブームの火付け役ともなった岩村忍も東方社にいた。そして写真部主任の木村伊兵衛は、戦後の写真界の権威として説明の必要はないだろう。報道技術研究会は広告及びメディア業界の戦後の出発点の一つとなっている。山名文夫は戦前、だれもが知る資生堂のアール・デコ風の広告表象を作り出し、戦後資生堂に復帰、グラフィックデザイナーとして広告業界の礎を作った一人である。原弘は戦後、ブックデザインの神様といわれ、1964年の東京オリンピックでは宣伝媒体のフォント統一を手掛ける。今泉武治は戦前には森永製菓の広告課、戦後は丸美屋の宣伝部長を経て博報堂の取締役、新井静一郎はコピーライターという職種を認知させたとされ、電通の常務となる。小山栄三は世論調査の専門家として知られ、立教大学でも教鞭をとる。米山桂三も慶応大学で新聞学を教える。写真史を飾る渡辺義雄、金丸重嶺、建築家の前川國男、山脇巌も大学で教鞭をとる。現場だけでなくアカデニズムや教育の中で彼らの思考や技術の一端は確実に戦後に継承されている。出版の世界ではマガジンハウス(平凡出版)を起こす島津達夫、その雑誌「平凡」のデザイナー大橋正や「暮らしの手帳」の花森安治も関わっている。両者の雑誌づくりにおける編集技術はともにフォト・モンタージュや組写真の延長にある手法である。一方で彼らが戦後に果たした役割としては、GHQとの関係という負の側面もある。東方社グループは、岡田桑三が岡正雄にアメリカ軍が占領地用に刊行していたバージョンの雑誌「スーパーマン」の利権を持ち込み、原弘がデザイン、光吉夏弥も名を連ねる出版社を占領下に起こす。敗戦後、岡は戦犯となることを恐れ一時、逃亡していた。しかし、GHQは岡のウィーン時代の日本基礎文化についての博士論文を取り寄せ接触している。東方社そのものもGHQから戦後接触を受けている。小山栄三がGHQから出頭命令を受け、日本政府が行う世論調査への協力を求められたという。東方社や報道技術研究会の技術やら方法は、このような形でも戦後にブリッジされている。

 

  ◎宣伝による「心」の組織化=報道技術研究会は発足して3年後の1943年、理論的成果として報道技術研究会編『宣伝技術』を刊行する、その「序」から。「宣伝は、この精神戦の主導力である。国家と国民の心を、国家と民族の心を急速に結ぶ強力な紐帯である。民族的親和力を大東亜建設へ結集し世界へ日本の意思を宣撫することこそ、宣伝の担う使命でなければならない」。