「盛岡だより」(2026.2)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
ヒロシマの酒・紫波の酒
日本の『伝統的酒造り』が、2024(令和6)年⒓月5日、ユネスコの無形文化遺産に正式登録された。
各地域の気候風土に応じて、杜氏や蔵人たちが五感を駆使して手作業で製造、発展してきた日本酒の伝統的技術と、日本の文化や社会において重要な役割を果たしていることが国際的に認められたのである。
古代日本では稲穂が神聖化され、米から作った日本酒を「御神酒」として神にお供えしていた。そのお下がりをいただくのが「お屠蘇」で、「三三九度」など神聖な儀式やお祝いの席でも日本酒が使われるようになった。その酒造りが確立していくのが奈良時代から平安時代にかけてのようである。
蔵元によって味も微妙に違い、人によって好みの銘柄が決まってくる。
「酒飲み」は酒が出ると、つい「この酒、なんていう酒?」と問い、聞き慣れない名だと「どこの酒?」と聞き返したりラベルで醸造元の住所を確かめたりする。酒の贈答には決まって地酒になるのも地元の酒を誇らしく思うところがあるからだろう。
現在、盛岡に蔵元が3つあるが、かつては『岩手川』という銘柄の酒があった。私が若いころは、災難などのお見舞いやご祝儀には酒を持って行く習慣があって、お目出たいときには『あさ開』で、そうでないときは『岩手川』といわれていた。縁起のよい「開く」と「水に流す」ということばにこだわってのことだった。これも文化のひとつだったのかもしれない。
私の出生地・岩手県紫波町に県内では1町内最多4つの蔵元(写真参照)がある。地域には杜氏もいたし冬になると酒造りの出稼ぎに行く者も多かった。だからか、幼いころからここが「酒造りの村(当時は志和村)」という自負心のようなものがあった。
そんな思い込みが大恥をかくことになる。
平成になる前年の4月に広島に転勤になった。赴任してすぐに地元の代理店が歓迎会を開いてくれた。宴の途中で「東北は酒どころ。広島の酒はどうですか?」と問われた。生意気にも「こちらの酒は甘口ですね。私はどちらかというと辛口が好きで……」と言って、「私の地元には酒蔵が4つもあって……」と続けてしまった。
フッと座が白けたが、その方は「その酒、いつか飲んでみたいものですね」と収めてくれた。
翌日、広島の酒を調べてみた。広島の西条が「日本三大酒どころ」の一つではないか。私が知っていたのは「伏見(京都)」と「灘(兵庫)」だけだったのだ。
地元のプライドを傷つけてしまったようで、居心地が悪い。そこで父に頼んで、生家のすぐ近くにある蔵元『堀の井』の辛口1升10本を木箱で送ってもらいそれをお礼に配り、面目を晴らした。
これがきっかけで、4年の勤務を離れたあと10 年以上も、岩手と広島の酒が正月の贈答品として行き交うことになる。贈るのも贈ってくるのも辛口ばかりであった。
今も飲むのは主に日本酒だが、量はめっきり減った。