前田功               昭和サラリーマンの追憶

                                                                                

  

                          「働いて働いて働いて・・・」に思うこと

       


 

 

 まえだ いさお 

元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表 


 

 高市首相の「働いて働いて働いて……」という趣旨の発言を聞いて、引っかかりを覚えた。本人がそうした生き方を選ぶのは、もちろん自由だ。しかし、それを社会全体へのメッセージとして発することには、強い違和感を覚える。彼女に限らず、似た発言をする経営者や著名人は少なくない。

 彼らは概して「強者」である。裁量を持ち、時間配分も自分で決められる。疲れれば休む判断もできる。多少無理をしても、それが評価や報酬に返ってくる。だが、雇用される側の多くはそうではない。働く時間も場所も上から決められ、断れば不利益を被る可能性がある。

 労働時間規制に対し、経営側から揺り戻しの動きが見られる今、こうした発言は、現場への無言の圧力になりかねない。「もっと働けるだろう」「昔はもっとやっていた」という空気が、再び忍び寄る。

 「働き方改革なんて迷惑だ」「働きたい人が自由に働けるようにしろ」という声も目立つようになった。「若いうちは無理をしてでも働け」「パワハラだ何だと言われては指導ができない」といった主張も、決して少数ではない。

 こうした意見を発する人の多くは、競争を勝ち抜いてきた少数の成功者である。家庭などの環境に恵まれ、体力があり、ストレス耐性が高く、プレッシャーを成長の糧にできる人たちだ。組織の中では、明らかに例外的な存在と言っていい。

 私にもサラリーマンとして順調にやってきた時期があった。会社に認められ、仕事を任され、違和感なく働いていた。その当時、こうした意見の人たちのような考えを抱いたことがあったかもしれない。

 ただ、それは当時、妻が専業主婦で子どもの教育や家事全般をすべて見てくれ、私が持てるエネルギーのすべてを仕事のみに、そして仕事の中に自己の成長や自己実現を見出せる環境にあったからだと思う。

 だが、娘のいじめ自殺の真相を隠蔽しようとする学校や教育行政と闘うようになって以降、私は会社と「距離」を取るようになった。会社の外で闘う時間が長くなった。自分のエネルギーのかなりをそちらに使うようになった。その過程で、組織というものの性質を、否応なく考えさせられた。

 特別な悪意を持った人間でなくても、組織の中にいるというだけで、組織を守るために事実を歪めてしまう。組織というものに備わるそんな悪が赦せなかった。そうした組織の論理を内側から正当化する役割を担う「経営」という立場に、私は違和感を覚えるようになった。そして、経営から距離を置くようになった。

 不思議なことに、その距離感は、仕事の質を下げることはなかった。部下なし管理職ではあったが、むしろ、任された分野を一人で判断し、淡々と進める仕事は、自分に合っていた。ただ、やるべきことを自分が納得いくだけやる。それがよかった。

 こうした経験を経て、私は、会社は「イエ」ではないのだと、体得した。守ってくれる存在でも、人生を預ける対象でもない。だからといって、敵視する必要もない。ただ、過度な忠誠や幻想を持たないこと。それが、私のスタンスとなった。

 世の中の働く人の大多数は、様々な制約を抱えつつ、生活のために働き、仕事による過度な負荷は避けたい。そうした人々がいてこそ、社会は成り立っている。

 長時間労働や強い圧力に耐えられず、静かに職場を去った人は数え切れない。彼らが消えた後に残った「生き残った声」だけで、「規制は不要だ」と語るのは、生存者バイアスにほかならない。

 働き方改革とは、さまざまな制約を抱えた人でも、力を発揮できるようにするための仕組みづくりでなければならない。本来なら、様々な制約を抱えた人ものびのび働けるよう、経営の方がムリ・ムラ・ムダを減らす試みでなければならない。しかし、逆方向に動いているように思う。

 私と同世代(=昭和サラリーマン)が、いまの若い世代が会社や仕事に対してどこか醒めた目を向けるように感じるのは、怠けや世代気質の問題ではない。私自身がそうであったように、組織の論理と個人の人生が食い違う場面を、どこかで直感的に感じ取っているのだろう。