今月の推し本
『ユダヤ人の歴史』鶴見太郎 中央新書3839
岡本 敏則
おかもと・としのり 損保9条の会事務局員
22年前の夏、ヨルダンのアンマンからイスラエルに入った。ビザは東京のイスラエル大使館で取得。イスラエルの入国印があると、アラブ諸国には入国できないのでパスポートではなく別紙にビザのスタンプが押される。タクシーでヨルダン側の検問所まで行き、出国の印が押され、中間地帯を専用バスで行く。イスラエル側の検問所でパスポートを渡す、検問所の屋上にはマシンガンを構えた兵士がおり、バスの横腹のトランク室のドアを開けると銃を構えた兵士がトランク室に銃を向ける、テロを警戒してか。イスラエル側の検疫所に着くと、入念な荷物チェックがあり、英語で入国の理由が聞かれる。銃を持った兵士が巡回している。イエリコまでバスで行き、タクシーを拾いエルサレム旧市街の下まで行く。旧市街は周囲4キロの城壁で囲まれ、キリスト教徒地区、ムスリム地区、ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区があり、ヤフォ門に近いキリスト教徒地区のホテルで部屋が取れた。夜になると、銃を担いだ自警団が巡回しており、店は夕方にはシャッター、格子がおろされしっかり施錠される。4日間滞在、城壁の上を一周、ダマスカス門の上にはマシンガンの銃座に兵士が立哨、スークの中は複数の兵士が銃を構えながら巡回している。旧市街はイスラム教の岩のドーム、ユダヤ教の嘆きの壁、キリスト教の聖墳墓教会と三宗教の聖地がある。日本人はブッディストと思われているのか、入場の時も検査は簡単だった。嘆きの壁では割礼が終わった少年を父親が担ぎこれから親戚一同で祝うのであろう、歓声も上げていた。
鶴見太郎氏(1982年生、東大准教授 歴史社会学者 専門はロシア・ユダヤ史、シオニズム、エスニシティ・ナショナリズム論)を最初に知ったのは2011年「UP」(東京大学出版会)に発表された第1回東京大学南原繁出版賞受賞の記事であった。氏は3000年以上に及ぶユダヤ人の歴史を著述する。昔、J・P.サルトルの『ユダヤ人』(岩波新書)を読んだ記憶がある。イスラエルはなぜホロコーストを経験しながら、パレスチナでの虐殺を繰り返すのか、ホロコーストを生き延びてきたユダヤ人にシオニストは冷淡であった、「自衛意識が欠如した先に訪れた破局」と見なしていた。ではPickupを。
◎『ヴェニスの商人』=シェイクスピアが活躍した16世紀のイングランドには、実はユダヤ人はほとんどいなかったのだから、シャイロックは想像の産物にほかならない。13世紀末にエドワード1世による追放令でユダヤ人は消え去り、再入国が許可されたのはようやく17世紀半ばになってからだ。シェイクスピアがシャイロックのネタ元にしたのはキリスト教世界で流通していたユダヤ人に対する偏見だった。「肉1ポンド」という部分は、ユダヤ人が儀式のためにキリスト教徒の子の血を抜き取るというデマを反映したものなのだ。
◎三宗教=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通する信仰は「排他的一神教」と呼ばれる。世の中に唯一神以外に神の名に値するものは存在しないという考え方だ。自分ないし自民族が信仰している神は、他者・多民族も支配しており、別の神を崇める者は、たんにそのことに気づいていないだけということになる。また、他民族であっても同じ神の救いに与る可能性があるということにもなる。三宗教とも、世界を唯一司るところの同じ神を信仰することは相互に了解している。異なるのは,神の道に到達するための考え方や実践である。
◎アドルフ・ヒットラー=18歳からウイーンに住み始めたヒトラーは、1910年から3年ほど、ユダヤ人の貧困地区に住んで居た。彼は「東方ユダヤ人」にも出会っており、そこでユダヤ人に対する蔑みの感情を持ったと見られている。普仏戦争に勝利し、1871年に統一をはたしたドイツ帝国では、すでに1870年代の終わりから、宮廷聖職者にして政治家だったアドルフ・シュテッカーらが反ユダヤ主義を扇動するようになっていた。
◎独ソ戦=1941年に開始されたドイツのソ連侵攻では、侵攻過程でも多くのユダヤ人が殺害された。ほとんどが銃殺であり、占領下の住民に掘らせた穴の上で銃撃し穴に落としていく方法も頻繁に用いられた。ホロコーストにおけるユダヤ人の死亡者数は600万人、そのなかでガス室で命を落としたのは半数ぐらいであり、そのほかはこのような形で銃殺されたり、収容所で餓死したりした。
◎絶滅収容所=独ソ戦が膠着状態に陥り、ソ連領への移送がうまくいかないことが見えてきた1941年の12月、ついに絶滅収容所が設立された。なぜそこまで徹底して殺す必要があると考えたのか。それは、人種という概念にとり憑かれたなれの果てだった。1942年、ベルリン近郊のヴァンゼーで会議が開かれた。収容されたユダヤ人はしばしば東方での労働にも充てられ、過酷な環境ゆえに死者も多く出て、いわば淘汰された状態だった。ところが、この会議では、この生存者こそが頑強なユダヤ人の核であって、ユダヤ的生活を再建する危険分子だとする意見が出された。彼らこそ殲滅しなければならない、と。アウシュビッツ強制収容所では、1941年9月、まずはポーランド人の政治犯やソ連軍捕虜からガス殺が始まった。そして、1942年より、ユダヤ人に対しても本格的に「稼動」していく。そこでの大量虐殺がホロコーストの頂点である。だが、ホロコーストは1945年5月のドイツ敗戦で終わったわけではなかった。ドイツから解放されたユダヤ人の中にはポーランドの自宅に戻る者もいた。しかし、すでに入居していたポーランド人に追い払われたり殺害されたりする例があとを絶たなかった。有名な例が1946年7月に中部の都市キェルツェで起こったポグロム(民衆間の集団暴力)だ。42名のユダヤ人が殺された。
◎ヴォロディミル・ゼレンスキー=本人も公言するように、ユダヤ系である。ウクライナ東部のクリヴィー・リフに研究者の父とエンジニアだった母のもとに生まれた。ホロコーストで亡くなった親戚も多い。この地域はロシア帝国の開発で工業化し、ソ連時代までに多くのユダヤ人が流入していた。ソ連ユダヤ人の典型にたがわず、ゼレンスキーはロシア語化し、ユダヤ教やそのコミュニティからは疎遠になっていた。彼はユダヤについてほとんど語ってこなかったため、どのくらいユダヤ人意識をもっているのかはわからない。彼がユダヤ人が活躍しやすい芸能界で頭角を現し、ユダヤ系のオリガルヒ(政治的影響力のある振興財団)であるイホン・コロモイシキーから支援が得られたのはもちろん大きい。政治腐敗に辟易していたウクライナの有権者から、政治経験がないことに好感を持たれたことも奏功した。