「盛岡だより」(2026.4 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                  歌人・大西民子

 

 2月の末『大西民子の肖像』の出版記念パーティーがあった。この本は、歌人・大西民子の生誕百周年記念として「もりおか民子の会」(会長 阿部正樹)が出版したものである。私は、呼びかけ人のひとりとして参加した。

 

 私が大西民子を知ったのは、2009(平成21)年、盛岡市の中津川河畔の緑地に彼女の歌碑が建てられたときだった。 

岩手の歌人といえば石川啄木ぐらいしか知らなかった私が、岩手には有名な歌人がまだいたんだと驚き、同時に「なぜ知らなかったのか?」と疑問に思ったものだった。

 菅野(旧姓)民子は、1924(大正13)年5月、盛岡市八幡に生まれた。城南尋常小学校をへて盛岡高等女学校(現・盛岡第二高等学校)に進み、卒業後、奈良の高等師範学校に入学する。昭和19年、卒業と同時に岩手に戻り、釜石高等女学校の教師となった。そこで知り合った大西博と結婚、1949(昭和24)年に大宮市(現さいたま市)移住する。

 民子が岩手に住んでいたのは24年足らずである。だから知らなくてもしようがないと自分に納得させたものである。

 

 民子は講演のなかで、短歌の道に進むきっかけをこう話している。

 「小学2年のとき天神さまにお参りしたら碑が建っていた。先生に聞いたら、啄木という変な名前のおじさんが作った歌が書いているんだよと教えてくれた。……女学校に入って山に登ったりすると必ず啄木の歌碑があった。こういうものなら私にもできそうな気がして、五七五七七と指を折りながら歌を始めた。……石をもて追はるるごとく、という啄木の歌に憧れて遠くに行き、文学の修練がしたかった。それで奈良の女子高等師範学校に行ったんです」

 彼女は、幼いころに啄木を知り、啄木に憧れ、69歳まで短歌ひと筋に生きた。迢空賞、詩歌文学館賞、短歌研究賞、埼玉文化賞、紫綬褒章を受賞し、さまざまな賞の選者を務めている。9冊の歌集を刊行し、「波濤短歌会」の結成にも尽力している。

私の友人である川村杳平氏は、著書『歌人・大西民子の生涯』で「民子は啄木ほどの業績を残した盛岡出身の第一級女流歌人」と記している。同感である。岩手ではもっと知られてほしい歌人だ。

 

 大西民子の歌碑は、活動の拠点だった埼玉県に2つある。盛岡市の中津川河畔に建てられた3つ目の碑が、夫と別れ、両親、姉、妹を失い、孤独のまま郷里に戻ることがなかった民子の「里帰り」であった。

 碑に刻まれた歌は、民子42歳のときのものである。

 

 きららかについばむ鳥の去りしあとながくかかりて水はしづまる

 

 水面を乱して鳥は去った。しばらくかかって川面が落ち着く。去った鳥はカワセミだろうか。「きららかに」と形容した一瞬の情景が残像として見え、静かな余韻を残す一首である。