前田功            昭和サラリーマンの追憶

                                                                                

  

                                農地改革と平等の原風景

       


 

 

 まえだ いさお 

元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表 


 令和のいま、社会のあちこちで「不平等」や「不公正」が当たり前のように語られ、しかもそれが若い世代に受け入れられている光景に出会うたび、私はどうにも言いようのない違和感を覚える。

 なぜ自分はこれほどまでに「平等」「公正」であることにこだわるのか。その理由をたどっていくと、思いがけず、幼い頃に暮らした一つの村の風景に行き着く。

 

 私が育ったのは、県庁所在地の郊外に広がる農村地帯だった。東西南北も分からなかった幼い私に、大人たちは「城山が見える方が北だ」と教えてくれた。そんな素朴な村で、実は戦後日本の大きな転換点が、静かに、しかし確実に形を成していた。

 集落には30戸ほどの農家があった。庄屋風の立派な門構えの家もあれば、納屋と母屋が一体になった質素な家もあった。ところが、外見の違いとは裏腹に、どの家もほぼ一町歩前後の農地を持っていた。地主もいなければ、広大な土地を抱える家もない。村の全戸が、ほとんど同じ規模の土地を耕していたのである。

「誰もが同じように働き、同じように暮らしている」という、言葉にしがたい平等感が満ちていた。村は“平等の実験場”だったと言える。

 

 父は農業と鉄工所を営んでいた。家の周りに広がる田畑のほか、数百メートル離れた場所にも2反ほどの田んぼがあった。なぜそんな離れた土地を持っているのか、幼い私は不思議でならなかった。ある日、父は「その田んぼは農地改革でゴム長靴2足ほどの値段で手に入れたものだ。」と教えてくれた。公定価格が決まったあとにインフレが急激に進み、土地の実質価格が大きく下がったためだという。その話を聞いたとき、私は「土地とはこんなにも簡単に動くものなのか」と驚いた記憶がある。

 

 戦後の農地改革は、不在地主の小作地をすべて、在村地主の小作地のうち一定限度を超える分を国が強制買収し、実際に耕している小作人に低価格で売り渡すという、世界史的にも稀なほど徹底した再分配だった。

その結果、私の村のように、「全戸がほぼ同じ規模の土地を持つ」という、極めて平等な農村が各地に生まれた。

 一説には、これは共産主義への対抗策でもあったという。無産階級が共産勢力の支持基盤となることを恐れたGHQは、小作人を自作農に変えることで、彼らを“資産を持つ側”へと引き上げた。土地を持つことは、政治的にも心理的にも大きな転換だった。こうして日本には、戦後の中間層の土台が築かれていった。

 

 「努力すれば報われる」という空気

農地改革で生まれた平等なスタートラインの上に、戦後の成長社会が重なった。「農家の子が大学に行ける」「会社に入れば給料が上がる」「家を建てられる」「子どもに教育を与えられる」

 そんな経験が積み重なり、人々の心には「努力すれば人生は良くなる」という希望が根づいた。

企業もまた共同体的で、経営者は内部昇進、終身雇用が当たり前、株主より従業員が重視された。

 

 社会全体が「人間を中心に置く仕組み」で動いていた。

 私は大学を出てサラリーマンになったが、多くの職場は民主的で、誰もが会社の一員として尊重されていた。あの頃の空気は、いま思えば、戦後社会が共有していた「平等・公正の倫理」の延長線上にあったのだと思う。

 

令和のいま、あの村のような平等な空気は、社会のどこにも感じられなくなった。不平等や不公正がまかり通り、それを当然とする言説が力を持つ。「努力すれば報われる」という希望は揺らぎ、社会は人間よりも効率や利益を優先するようになった。

私が強い違和感を覚えるのは、あの村で育まれた「平等の感覚」が、社会から薄れてしまったからなのだろう。幼い頃に見た、30戸の農家がほぼ同じ広さの田畑を耕すあの風景。あれは単なる村の記憶ではなく、戦後日本が一度は手にした「平等の原風景」だったのだと思う。