前田功 昭和サラリーマンの追憶
企業がもたらした職場の「しらけ」
まえだ いさお
元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表
先月号で触れたように、昭和の時代、私を含め多くのサラリーマンは「熱く」働いた。今なら「ブラック企業」と言われるに違いないが、「24時間働けますか」というCMが流れていたほどだ。今や死語となった「モーレツ」という言葉も、当時はごく普通に使われていた。そして、よく働き、よく遊んだ。
テレビのBSで70〜80年代の歌謡特集を見ると、あの頃の気分が蘇る。
植木等の「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」にうなずき、「およげ!たいやきくん」の哀愁に自分を重ね、「この都会(まち)は戦場だから、男はみんな傷を負った戦士……」という岩崎宏美の歌の一節には、当時の自分の感覚がぴたりとはまる。
会社が銀座にあったこともあり、仕事の後は仲間とクラブやスナックに通った。店のママとデュエットしてこちらが「なーぜ泣くの?まつ毛が濡れーてる」と歌うと、「好きになぁったの、もぉっと抱いて・・・」と返ってくる。それは、一瞬の疑似恋愛だったのかもしれない。深夜になればタクシーは捕まらず、終電に飛び乗って居眠りし、終着駅近くのホテルで仮眠したこともある。カプセルホテルのサウナでアルコールを抜き、翌朝には何事もなかったように出社する──そんな日々が確かにあった。
当時は残業規制もゆるく、遅くまで働く人が多かった。サービス残業の議論は今ほどではなく、働いた分は給料に反映される。知人には給料の半分以上が残業代という人もいた。いまなら「ライフワークバランスがなっていない」と叩かれるだろうが、「家には寝に帰るだけ」という生活を多くのサラリーマンが受け入れていた。
しかし、あの時代を少し距離を置いて見直すと、企業は「過剰な忠誠」を前提に動いていたとも言える。「終身雇用」「年功序列」の安心感の裏側で、企業戦士としての献身は当然とされた。その構造は、働く喜びを生む一方で、人を燃え尽きさせる装置でもあった。使命感ややりがいが、時に“タダのエネルギー源”として消費されていたのだ。
そして迎えたバブル期。あの無茶なビジネスは、今振り返っても驚くほどだ。銀行やノンバンクが本業とは無関係の投機案件を持ち込み、「資金はうちで用意します」と勧める。そんな案件の利益が本業を上回り、企業は地道な仕事よりも“外れた儲け”を評価した。まじめに働く社員より、投機に関わる社員が称賛される。若い社員はその姿を見て仕事観を形づくっていった。
1985年に22歳で入社した人は、ちょうどその風景を見て大人になり、今は62歳。バブルの喧騒から、崩壊後の「失われた30年」まで、企業の中心を担ってきた世代である。バブル崩壊後、企業は人材育成を「コスト」と捉えるようになった。短期的成果、投機的発想、金銭中心主義……昭和の“熱さ”とは別種の価値観が幅を利かせていった。
企業は次第に「育てること」よりも「削ること」を優先し始めた。人件費は「投資」ではなく「コスト」として扱われ、ともすれば真っ先に削減の対象となった。もともと「事業再構築」を意味していたはずの「リストラ」という言葉が、いつの間にか「馘切り」を指す言葉として定着してしまった。正社員として残れたとしても、ある日突然、非正規へと落とされる可能性がある。そんな不安が常に背後からつきまとうようになった。
サラリーマンにとって、会社はもはや「イエ」ではない。裏切られるかもしれない存在。無条件に信頼して身を預けるわけにはいかない。燃え上がるように仕事へ没入するなど、「やってられない」と感じ始めた。ジョブ型雇用や成果主義が進むと、「自分の仕事以外には関わらない方がいい」「後輩を育てれば、自分の仕事を奪われる」そんな空気が社内に広がり、かつての助け合いの文化は静かに姿を消していった。
こうした変化が積み重なり、サラリーマンの中に「しらけ」が染み込んでいったのだろう。それは単なる冷めた気持ちというより、「裏切られまいとする自己防衛」に近い感情だ。働き方そのものが変わったというより、働くことに向ける“心の構え”が変質してしまったのである。
こうして振り返ると、令和の若い世代が仕事に「しらけ」を感じるのは、単なる世代気質の問題ではない。昭和の熱気、バブルの狂騒、そしてその後の長い停滞──その積み重ねの結果として生まれた価値観であり、むしろ自然な帰結なのだと思う。