「均等法と女工哀史」

     

                                  竹信 三恵子


 たけのぶ みえこ  朝日新聞社学芸部次長、編集委員兼論説委員などを経て和光大学名誉教授、ジャーナリスト。著書に「ルポ雇用劣化不況」(岩波新書 日本労働ペンクラブ賞)など多数。2009年貧困ジャーナリズム大賞受賞。


 

 今年は男女雇用機会均等法が制定されて40周年にあたる。細井和喜蔵の『女工哀史』が出版されて100年でもある。これらは女性の過労死に密接にかかわっているのに、この連載では一度も触れていない。それはなぜか。

 均等法が制定された1985年、私は大手紙の「二人目の女性経済記者」として働いていた。だが、華やかなイメージとは程遠い長時間労働に疲弊し、私は出勤の度に駅のホームのふちに立って「飛び込んだら楽だろうな」と考えていた。

 日本の新聞社は海外と違い、朝刊と夕刊を同じ記者が作るので、深夜まで働いて早朝に出勤する。そこでは「妻がいる」を前提にした男性が100%近くを占め、社員は何時になっても会社に居続けていた。

 4歳の子どもを抱え、毎朝9時から始まる証券市場の概況説明の取材のため、5時に起きて子どもにご飯を食べさせ、保育園につれていく。夕方は母が子どもを保育園まで迎えに行き、子どもと先に寝てもらう。子どもの持ち物を手作りするよう園に期待され、帰宅後に深夜、ミシンを踏む。

 仕事がないので帰ろうとすると、「だから女は」と言われた。夫は同じ新聞記者で、やはり家にいない。

 「女工哀史みたいな労働時間です」と取材先の男性の知識人に言うと「君みたいなエリート女に女工哀史とか言ってほしくない」と言われ、あぜんとした。

 均等法が生み出した「女性も活躍できるようになった」という固定観念が壁になって声を上げられず、新しい女工哀史は続けられた。

 当時の暗い記憶がトラウマになり、私はこの連載の中でさえ、「均等法」と「女工哀史」の言葉を飲み込んでいた。女性の過労死の背景は、このように深く潜って表に出ない。