前田功   昭和サラリーマンの追憶

 

        たそがれゾーンから見る最期の風景  

       


 

 

 まえだ いさお 

元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表 


 

 ぽっくり死にたい、穏やかに死にたい、愛しい孫に見守られて――そんな「理想の最期像」が、ふと頭をよぎる。だが、現実はどうもそんなに優しくなさそうだ。即死やポックリ死もなくはないが、多くは医者にかかり治療を繰り返すがだんだん容体が悪くなり、意識がはっきりしない状態が多くなり、やがて死を迎える。

 

 私の母は、十数年前、97歳で亡くなった。元気だったころ、「無理やり生かされたくない。入院することになっても胃ろうなど絶対にしないで・・・」と常に言っていた。しかし、結局入院することになり、何本ものチューブに繋がれることになった。

 公証人の署名を得た「尊厳死宣誓書」でも残していれば、違った対応になっていたかもしれないが、そこまではしていなかった。

 私や姉は、母が延命措置をしてほしくないと言っていたことを医師に伝えたが、医師は、「お母さんはこの方が楽なんですよ」と答え、チューブにつなぎ続けた。やがて、誰が面会に来てもわからないほどの状態を繰り返すようになったが、少しでも長く生きてほしいと思う私や姉は、医師のいうままの措置をよしとした。医師からは、「お母さんは、なかなか死ねないですよ」という言葉もあった。若い当時、心臓を悪くしペースメーカーを入れていたからだ。他のところが悪くなっても、心臓が動いているかぎり「死」とはならないのだ。

 家族の死に直面した場合、救命を願うのが情ではある。しかし、私には母の思いに反する亡くなり方をさせたのではないか、母に申し訳ないことをした、という思いが残っている。

 

 医療は、善意と倫理で命を引き延ばす。人工呼吸器に透析、酸素吸入に経管栄養…。命を支える仕組みではあるが、それが“生きている”こととイコールなのか、悩ましい。

 

 延命治療などしていなくても、高齢になると、自己決定という言葉にも陰りが差す。朝はしっかり話せていた人が、夕方には何を言っているかわからなくなることもある。自分の生死を決めるという一番大事なとき、決められない状態になっていることが多いのだ。

 

 その点で、評論家・西部邁さんはすごい。彼は、多摩川の河川敷で自殺を遂げた。彼は自書で「自然死と言われるものの実態は『病院死』にすぎない」と述べ、「自裁死」の意思があることを明言していた。いろいろな病気で体が不自由になり、痛みを抱え、執筆もままならなくなっていたようだ。自殺を決行する前から、周囲にその意志を伝えていたそうだ。

 ただ、不自由な体だから、自分一人で死ぬことができず、彼を慕う二人の人に手伝ってもらっている。遺書もそのうちの一人が代筆したものだ。この二人は事件の後、自殺幇助の罪で起訴され、裁判ではともに懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。

 彼が自死を選んだのも、苦しみの中で自分の尊厳を守ろうとしたからなのだろう。もし安楽死が合法であれば、彼の最期は違った形になったのではないか。だが、日本では安楽死は法に触れる行為だ。たとえ本人の強い意志があっても、実行には他者の罪が伴う。

 

 老衰は、“自然死”という言葉の象徴のようでいて、実際にはとても厳しい。関節の痛み、誤嚥、むせ、寝たきり。食べることも飲むこともできず、呼吸すら自力ではままならず、言葉を出す力も失われていく。それでも、なかなか死ねない。

 尊厳死を望んでも、家族が「少しでも楽に…」と医療を選択してしまえば、延命が始まる。そして一度始まった延命は、止めることが極めて難しい。

 

 がんで死にたいと言う人が多いという。がんはある程度の余命が予測できるから、その期間内に、会いたい人に会い、言いたいことを言い、したかったことをして、最後を迎えることができる。苦しみの中にも、死に向かう自由があるように見える。

 

 現実の最期は、「たそがれゾーン」と呼ばれる決定も否定もできない曖昧な領域を経て訪れる。

 判断力がなくなったときの判断、認知症になったあとの本人の意志、たそがれゾーンで揺れる感覚。メディアはさほど論じないが、誰もがいつかは直面する問題である。