斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
本が無意味な社会にしてはならない
さいとう・たかお 新聞・雑誌記者を経てフリージャーナリスト。近刊「『マスゴミ』って言うな!」(新日本出版、2023年)、「増補 空疎な小皇帝 『石原慎太郎』という問題」(岩波現代文庫、2023年)。「マスコミ9条の会」呼びかけ人。
たまりにたまった蔵書を少しずつ整理している。子どもが独立して夫婦2人きりになったので、生活を縮小することにしたのが理由だ。
とはいえ、少し前までは本を手放すのが嫌で嫌で、段ボール箱を埋めるのが苦痛だった。でも最近はそうでもない。割り切って処分してしまえることが増えてきた。
世の中を貫く価値観の変化が激しすぎるからだ。過去の現実や思索を記録している本が、なんだか色あせて見えてくるような。デジタル万能の時代に自分を合わせる〃アップデート〃なんてマネは死んでもしたくない私だけれど。あれほど愛した本たちなのに。
だが、きっと――。こういう時が危険なのだ。本が無意味であるのなら、私たちは過去や歴史から何も学ぶことができなくなる。取り返しのつかない愚行が、幾度も繰り返されていく。
そういえば、実在した人物をモデルにしているはずのテレビドラマが、史実をどんどんねじ曲げている状況も気になる。あったことをなかったことにしたり、なかったことをあったことにしたり。
ドラマであって、ノンフィクションでもドキュメンタリーでもないのだし、とはいうものの、モデルとされる人物の実人生にとって重要な要素が、軽々しく改ざんされていく無惨は看過できない。特にNHKの朝ドラがひどいと感じる。
この手の問題は、かつて「歴史修正主義」にとりつかれたネトウヨの専売特許のようだった。が、近年は左派、リベラル勢力も大差ない。本が軽視される風潮と通底してはいないか。
私自身はと言えば、生活を縮小する必要は避けがたく、蔵書を減らすのやーめた、とはいかない。その代わり、水増しの〃積ん読〃も少なくなかった書棚を、ぐっと筋肉質にして、中身をしっかり読み込んでいく。デジタルに支配されるのが当たり前みたいな時代に負けてたまるか。