「盛岡だより」(2025.6)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
峠越え
夏目漱石の『草枕』には、鳥越峠(熊本市)で馬子に出会う場面がでてくる。川端康成の『伊豆の踊子』は、雨に追われて天城峠(伊豆市)の茶屋に逃げ込むシーンから始まる。武士・机竜之助が老巡礼を理由もなく斬殺するところから始まるのが、中里介山の『大菩薩峠』である。
明治の富国強兵政策を、無数の少女たちが女工として支えた。飛騨から働きに出る彼女らが、横浜の工場までの40里を3泊4日で歩いた。途中の雪深い峠で足を滑らせ谷に落ちてしまう場面を山本茂実『ああ、野麦峠』はこう描いている。
「女工がお互いに体を紐や帯で結んで、大きな声で励まし合い、念仏を唱えながら峠を越えていくのを見た。……その女の悲鳴が野麦の谷々に響き渡り、峠の地蔵様はそれを黙って見守っていた」
岩手県に主な峠が96ほどある。有名な「笛吹峠」(県道35号・釜石遠野線)は、「冬季、吹雪の候にはしばしば方向を誤りて危難を招くことあり、笛吹の名称は『ふぶき』により出たる転訛なり」と上閉伊郡誌にある。遠野物語拾遺には、村人が継子の少年を馬放しに追いやって四方から火を放ち焼き殺した。少年は笛を吹きながら死んだ。それが名の由来だという。「千人峠」(国道283号・遠野釜石間)は、そこに仙人が住んでいたとも1000人が生き埋めになったからとも言われ、どちらも悲しい話が名の由来である。
「雲雀より空にやすらう峠かな」峠の茶屋で休む芭蕉はそう詠むが、峠はほっと一息つくところばかりではない。むしろ、苦難と悲劇の場所であったのだ。それゆえ、人生の浮き沈みやその岐路、運命の出会いと別れを暗示するうってつけの舞台となったのである。
今は、そこを歩いて越えることはまずない。道路は拡幅舗装され難所はトンネルで避けてある。そこに峠があったことさえ忘れている。だが、ことばとしての「峠」は健在だ。「夏の暑さも峠を越した」とか「この仕事も峠を越した」「選挙戦が峠にさしかかる」と言い、医師から「数日が峠です」と告げられることもある。
人生にも峠があるとすれば、私の大きな「峠」は30歳台から40歳台、昭和40年半ばから50年後半あたりが「峠」だったような気がする。
日本経済が高度成長した時期で、労働運動も盛んであった。東京と大阪に革新知事を当選させ、春闘では、毎年のようにストライキ権を高率で確立、大幅賃上げを勝ち取っていた。迎えるメーデーは文字通り「労働者の祭典」であった。
その後、バブル経済が崩壊し、日本の政治と経済は「峠」を下って下り続けて30年。今、それを「失われた30年」と呼ぶ。そう呼ぶようになったということは、ようやく次の峠が見える麓までたどり着いたということだろうか。いや、もうその坂を登り始めているのかもしれない。