今月の推し本
『中央線随筆傑作選』南陀楼綾繁編 中公文庫
岡本 敏則
おかもと・としのり 損保9条の会事務局員
筆者の両親は最初東中野に住んでいて5月25日の空襲で焼け出され、鍋や横丁に引っ越し其処も焼かれ、高円寺に移ってきた。その家で筆者は生まれ50年高円寺にいて、荻窪に引っ越してきて27年になる。杉並、中央線から離れられずにいる。今回はその中央線の話。
◎ねじめ正一(1948年高円寺生、詩人・作家)=中央線ほど変化にとんだ線はないと、私は思っている。多くの快速電車の西の終点、高尾にある高尾山は、真言宗智山派の関東三大本山のひとつ薬王院のある霊山だ。片や、東の終点駅は日本の中心、東京である。真ん中には日本一の繁華街新宿もある。高尾から三鷹までの沿線からは、武蔵野の匂いがぐぐっと押し寄せてくるような気がするし、東京の方からは、江戸の香りも漂ってくる。そのうえ、それぞれの駅が、大小はあるものの、それぞれの街の自己主張をしている。そして、東京方面からの江戸っぽい風と、高尾方面からの風が、ちょうどいい具合にまじりあうのが、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪辺りである。その混ざり具合が、とても心地よいのである。(初出2015年)
◎種村季弘(1931~2004年 独文学者)―ああ黄金の阿佐ヶ谷・荻窪、暗い鉛色の池袋。そうだ、くやしいけれど、事実はその通りなのだから仕方がない。死んだ親父も口癖のように言っていた。中央沿線に住めなかったのが、ウチみたいに一段地価の安い池袋に流れてきたのだ、と。ことほど左様に、父子二代にわたって中央線へのコンプレックスは、重くどす黒くわだかまる。そういえば、たった2年程にもせよ阿佐ヶ谷に住んだのも、考えてみれば此の抜き難いコンプレックスのなせる業だったのかもしれない。(初出1985年)
◎『高円寺』・唐十郎(1940~2024年 劇団主催・劇作家)=30代前半に、僕は高円寺に住んでいた。それから15年経って、また高円寺に戻ってきてしまったのは、駅前マーケットの繫雑さに、身を擦り寄せたくなったせいだろう。その高円寺の高架線の下は、古本、家具などの倉庫が多く、中野寄りの倉庫の一つは、劇団新宿梁山泊の稽古場だった。座長の金守珍とは、長い付き合いであり、ガード下倉庫の稽古場で演じられる試演会などを、何度か観に行った。上演中に、頭上を走る中央線の轟音が、低く響いて、それも演じている芝居の一つの効果となった。観終わって、そこでまた酒を酌み交わすと、電車の音で酔いも震える。(初出2000年)
◎『阿佐ヶ谷』・永島慎二(1937~2005年 漫画家)=私の住んで居る所は、東京の中央線沿線、すなわち東京駅から高尾、八王子といった山の見える町の方に向かってのびる国鉄線の新宿と吉祥寺の間にある特急も止まらない阿佐ヶ谷という小さな駅。町の北口で、駅から歩いて約三分程のトコロにある、大正時代に建てられたという少しばかり大きな家の一角に、私はもう25年近く下宿しているのであった。この街を吹く風に惚れて、ホンノちょっとのつもりが、気が付いてみると四半世紀が過ぎていたという訳。まさに人の出入りのはげしい都会の中の村なのだ。あの有名な作家太宰治と酒呑んでケンカしたことのある人が住んで居たり、私の下宿している家の斜め向かいでは梶山季之氏がその無名時代にコーヒー店”ダベル”を営んでいたという話を、四つ角の渡辺金物店の主人に最近聞いてビックリした。大正から昭和にかけて色々な若者がいろいろなところから集まり、詩、絵画、音楽等々を目指して、その青春をかけて苦闘した所でもあるようなのだ。(初出1985年)
◎『荻窪』・与謝野晶子(1878~1942年 歌人)=荻窪は東京駅から4里もある東京の西郊に位置し、大震災前までは東京人の注意に上がらず、私などは名さえも知らなかったほどの辺鄙な農村であった。私達は大震災に遇って幸い焼け出されることを免れたが、市内に住むのが怖くなって、もとから好きな郊外に再び移ることを計画し、人に勧められて此の荻窪に700坪の土地を借りた。地主の須田平八氏が、括淡な、そうして親切な老農で、坪4銭で貸して下さった。併し700坪は余りに広いので、1年後に200坪を戸川秋骨先生にお譲りして、よいお隣が出来た。地代は去年の3月から5銭に上げられた。附近の欲の深い地主たちは8銭乃至10銭に貸しているのであるが、私達の地主はわずかに1銭しか上げない。「上げなくてもよいのですが、外の地主への義理もあって」と気の毒そうに云われる。物質的に仕合わせな事のない私たちも、住む土地だけは地主のなさけで仕合せをしている。歌会をする日本間と浴室を建て増して、土曜から日曜へかけて市内の宅から書物を読みに来た。翌年の夏ここで歌会をしたが、茂るが儘にした雑草が高く軒に及んでいるのを喜んで良人が夏草の歌をたくさんに詠んだ。市内の宅を引き払い、子供たちを連れてここへ住んでから6年の時がたつ。(初出1932年)
◎『西荻窪』・田中小実昌(1925~2000年 作家)=西荻窪南口の路地で飲んでいると、そこのママが、街のお客さんみたいねと言った。西荻窪南口の「街」という飲み屋で、毎晩のように飲んでいたことがある。戦後のカストリからふつうの焼酎にうつりかわったころだが、闇酒ではないふつうの焼酎にもメチル含有量などが書いてあった。西荻窪で飲んでいたころは、毎晩のように飲んでるくせに、食べる金がないことがちょいちょいあった。桜の花が咲くころ、ウイスキーの瓶に番茶を入れて、善福寺池に歩いていきオタマジャクシをとって、番茶の中で泳がせていたら、池のそばで、お花見をしていた人たちが「へえ、オタマジャクシはウイスキーのなかでも元気なんですね」と感心しぼくたちに酒を飲ましてくれ、重箱にはいったごちそうももらって、空腹につめこんだこともあった。「街」のむこうのちいさな踏切のそばの果物屋では、果物までツケでもらっていた。その頃の借金は、ほとんど返していない。(初出1982年)
*安藤鶴夫(四谷)、田辺茂一(新宿)、埴谷雄高(東中野)、向田邦子(中野)、西江雅之(三鷹)、三木卓(国立)など43篇が収録されている。