野球ブームの中で書き残しておきたい「草野球」のこと
玉木 正之
たまき・まさゆき スポーツ文化評論家,日本福祉大学客員教授。著書に『スポーツとは何か』(講談社現代新書)など多数。近刊は「真夏の甲子園はいらない 問題だらけの高校野球」(編・著、岩波ブックレット、2023年)
草野球という言葉は、今ではすっかり死語になってしまった。が、私が小学生だった頃(昭和30年代=1955~64年頃)、男の子たちは毎日のように空き地や寺や神社の境内で、ソフトボールや軟式野球に興じていた。
昼休みには、サラリーマンがボールとグローヴを持ち出し、道路の端っこや空き地でキャッチボールをするのも、ごく自然な姿だった。
京都の祇園町に生まれ育った私も、小学校の授業が終わると早速近くにあった禅寺の建仁寺へ行き、陽が沈むまで三角ベースに興じた。その三角ベースを私たち京都の子供たちは「太鼓ベース」と呼んでいた。が、なぜそう呼ぶのかはわからないままだった。
大人になってスポーツライターの仕事をするようになったある日、ある地方紙のコラムに、東北地方では三角ベースのことを「沢庵ベース」と呼んでいたという記事を発見した。さらに九州地方では「鉄管ベース」と呼ばれていたことも発見した。
これで、疑問は氷解した!「太鼓ベース」も「沢庵ベース」も「鉄管ベース」も、すべて語源は「テイク・ワン・ベース」に違いない! 第二次大戦後、日本に進駐した米兵たちが草野球に興じたところが、草むらや排水溝など、さまざまな場所に打球が飛び込み、ボールを探す間、「テイク・ワン・ベース」と叫んだに違いない。
それを聞いた子供たちが草野球のことを「太鼓ベース」「沢庵ベース」「鉄管ベース」と呼ぶようになったのだ。
私が中学生になる頃から、寺の境内での草野球は禁止され、子供たちは野球クラブに入ってユニフォームを着るようになった。それは「歴史の流れ」だろうが、私達の「草野球場」(フィールドオブドリームス)から衣笠祥雄という大打者が生まれたことは書き残しておきたい。