守屋 真実 「みんなで歌おうよ」
もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏
アダンの会6年!
昨年12月14日で、辺野古の土砂投入開始から丸6年が過ぎた。私たちアダンの会の抗議行動も同じく6年続けてきたことになる。規約も会員登録も何もない自発的な集まりで、よくこれだけ続けてきたなと思う。いや、むしろそういう緩いつながりの会だから義務感に縛られることもなく、肩ひじを張ることもなく楽しんで続けてこられたのかもしれない。私は今年の6月からドイツの年金が受給できることに決まったので、7月いっぱいで日曜日にやっていた障がい者のグループホームでの夜勤を辞め、そのぶん月曜日にも抗議行動に参加することにしている。
12月半ばの月曜日、いつものように歌を歌っていたら、通りの反対側で一人の男性が立ち止まりこちらを見ていた。何か迷っているように振り返り、ちょっと歩き、また立ち止まって、それから横断歩道を渡ってくると私たちに話しかけてきた。「しんぶん赤旗」の記者だった。議員会館での取材に間に合うかどうかと考えて、話しかけるのを躊躇していたらしい。みんな読者なので、もちろん喜んだ。「皆さんはどうして抗議行動をしているのですか」と訊ねられて、自分でも「どうしてだろう」とふと考えた。
戦争に反対だから。日米安保条約、地位協定を失くしたいから。自然を守りたいから。軍事費ではなく社会保障や教育に税金を使って欲しいから。沖縄を差別したくないから。…理由はいろいろあるけれど、私の場合、やっぱり一番根源にあるのは社会の不正に対する怒りだと思う。大きくて強い子が小さくて弱い子をいじめていたら、「やめなさい!」というのが大人の当たり前の行動だと思う。病気や貧困に困っている人がいたら、何とか助けたいと思う。金持ちが貧乏人を搾取して富を独り占めしていたら、それに加担したくないと思う。固い言葉で言えば倫理観だけど、もっと普通に「当たり前にやるべき行為」だと思っているからだ。弱い者が踏みつけられ、貧しい者がさらに奪われ続ける社会に、理屈でなく本能的に怒りを感じるからだ。社会を構成するメンバーの大多数が「当たり前にやるべき行為」という共通認識を持っていなければ、それを言葉や行動で示さなければ健全な社会は維持できない。
昨今の世の中を見ていると、この「当たり前」が大きく崩れてきていると思う。反対に「当たり前にやってはいけない行為」が平然と行われたり、もてはやされたりしている。他人を誹謗したり、中傷したり、嘘でもなんでもSNSで「いいね!」をたくさん稼げればいいという風潮が社会の存続を脅かしていると言っても過言ではないだろう。大手有名企業がデータの改竄やら過剰ノルマやら不正をし、若者が僅かな金を奪うために高齢者を殴ったり死なせたりする。政治家が平気で「当たり前にやってはいけない行為」をする国だから、モラルが崩れるのは当然と言えば当然かもしれない。
それに対して、私たちは何ができるのだろう。SNSや新しいメディアは、私たちの得意とするところではない。これからの社会の流れについて行けるのかどうかと不安になることもある。みんな高齢者だから、健康上の問題も起きてくるだろう。それでも、これからも続ける。必要ならあと6年でも、もっと長くてもやり続けるだろう。だって、それが当たり前だから。
アダンの会のおばさんたちは、弱い者いじめに腹が立つから、差別に加担したくないから、仲間が待っているから、みんなで歌うのが楽しいから「当たり前」に集まっている。行動を終えるとおやつを分け合うのも恒例だ。中には手作りのサーターアンダギーを持って来てくれたり、さつま芋をふかして来てくれる人もいるし、秋には永田町産の銀杏入りおにぎりもある。昔の田舎の寄り合いみたいなものだ。助け合うことも、分かち合うことも、私たちには「当たり前」だ。だからこそ、私たちは強いのだ。
社会の調和と安泰に必要な五常の徳は、「仁・義・礼・智・信」だと儒教が教えている。なかでも重要なのが「仁」と「義」である。それは人間が守るべき道徳で、礼儀上なすべき努めのことである。日本人が大切にしている基本的な価値観でもある。
10月10日、公明党は政権を離脱した。
公明党は連立維持の条件として「靖国神社参拝」「裏金問題の解明」「企業献金問題」の対応を連立維持の条件としていたが、これらに対して自民党から明確な回答がなかったからだとしているが、自民党は「一方的に告げられた」と言っている。
私は、公明党が連立の条件を出したとき、その条件に一瞬「今さら?」という気がした。連立を組んで26年、その間、それらは何度も問題になったはずである。それを容認(?)してきたのに、なぜ、今になってそれを頑なに主張するのかと思ったのだ。だが、それは、民意に押されているからだと好意的に解釈していた。
自民党の党大会で、高市早苗が総裁になり、麻生太郎が副総裁になった。常識的に考えると、新総裁はいの一番に連立を組んできた公明党に挨拶に出向き、その上で「今後、どうしましょうか?」と相談するのが筋であろう。
だが、そうではなかった。高市と麻生が最初に会ったのが、国民民主党代表の玉木雄一郎だったのだ。当然、政権協力の話をしたのだろう。
「仁」と「義」に続くのが「礼」である。これも日本人の基本的な価値観で、日本人はこれらに欠ける人間を徹底的に嫌う。
自民党は、支えてくれた公明党に「仁義」も「礼節」も示さなかった。公明党からすればそれは侮蔑されたことであり、屈辱と怒りを感じたはずである。私だって相手がそういう人間なら、さっさと見切りをつけて縁を切るはずだ。
1973(昭和48)年『仁義なき戦い』という映画があった。シリーズで5作創られ、1999(平成11)年「日本映画遺産200」にも選ばれている。
ヤクザを主人公にしているが、ヤクザ映画でも任侠映画でもない。義理と人情、恩義と裏切り、愛と憎悪、怨念と殺戮を描いた群衆活劇で、戦後日本の暗黒社会を描いていた。
石破首相の退陣から総裁選、新総裁誕生と今までの政局をみていると、権力を握るための打算と工作、陰で暗躍する長老たちばかりが目につく。映画は「仁義なき社会は抗争を生む」といっていたが、自民党内部はまるでこの映画のようである。
かつて、自民党と有権者は、政策より義理と人情でつながっているといわれていた。そのころの自民党には、まだ「仁・義・礼」もあったということだろうが、今はカネがすべてのようだ。「五常」の残るは「智(道理をよく知り、知識が豊富)」と「信(情に厚く真実を告げ約束を守る)」だが、自民党はそれさえも失ってはいないか。