前田功 昭和サラリーマンの追憶
昭和の「働く喜び」---熱と人情の時代
まえだ いさお
元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表
サラリーマンをやめて、ずいぶん長い時間がたった。その間に、働き方も、職場の空気も、大きく変わったようだ。
今のサラリーマンたちが、どんな日々を送っているのか──正直、私にはもうよくわからない。
昔、「稟議書」というものをよく書いた。四苦八苦して書き上げ、上司や担当役員のハンコをもらって回る。印鑑が一つ押されるたびに、ほっとして、少しだけ自分が認められた気がした。中には、稟議書の案は気に入らないが反対はできないからと、ハンコを上下逆に押す人もいた。そんな小さな仕草にも、人の思いがにじんでいた。
若い人に「あれ、今はどうしているの?」と尋ねたら、「メールで回します」と言われた。紙も朱肉も使わずに済むのだという。たしかに合理的だが、そこにあった人の気配──筆跡やハンコの押し方に宿る感情──は、もうどこにも残らない。そう思うと、少し寂しい。
昭和の会社は、単なる雇用主ではなく、「カイシャ」というより「イエ」だった。
誰かが亡くなれば、葬儀の手伝いに行くのは当たり前。喪主の隣に部長が立ち、受付を同僚が守った。結婚式にも上司や同僚が当然のように顔を出し、部署を挙げて祝った。今から思えば、少し過剰な共同体だったのかもしれない。けれども、そこには確かに「同じ釜の飯を食う仲間」という感覚があった。
新人のころ、仕事で失敗して落ち込んでいると、先輩が黙って飲みに誘ってくれた。「まあ、気にするな」と言いながら、くだらない話で笑わせてくれた。酒を飲みながら、仕事の段取りや人との距離の取り方を、いつの間にか学んでいた。それが職場の日常であり、れっきとした“教育”だった。
「人材育成」という言葉がスローガンになるずっと前から、それは職場の空気として自然に息づいていた。若手の失敗を自分の責任としてかばう上司、何も言わずに夜遅くまで残って後輩の書類を直してくれる先輩。「育つこと」も「育てること」も、同じ会社の中で完結していた。当時の上司は、部下を「使う」よりも「鍛える」ことに誇りを持っていた。若い社員が成長していく姿を見ることが、自分の仕事の成果だった。「お前の責任だ」と言われたとき、それは叱責ではなく、「お前に任せた」という信頼の裏返しでもあった。
もちろん、あの時代の職場が理想郷だったわけではない。理不尽な上司もいれば、終わりの見えない残業もあった。成果よりも根性が重んじられる空気もあった。それでも、多くの人が「自分の居場所」を感じていた。誰かが困っていれば、必ず手を差し伸べる人がいた。そうした関係性の中で、人は支え合いながら成長していった。
あの頃の仕事は、今よりずっと非効率だった。パソコンもスマホもなく、資料はすべて手書き。会議のために徹夜で清書をし、朝一番に上司の机に置いた。それでも、不思議と「やらされている」とは感じなかった。
自分の部署の仕事をもっと良くしたい──その思いから、私は当時、エクセルの前身である「エポカルク」を使って業務の効率化に挑戦した。会社の電算機の容量は今のスマホ以下。昼間は電算室が使えず、テストは深夜しかできない。何度も泊まり込み、試行錯誤を重ねた。
プログラムが動いた瞬間、胸が高鳴った。あれはまさに「働く喜び」そのものだった。
誰に頼まれたわけでもない。ただ、「自分の工夫で仕事が変わる」ことがうれしかったのだ。昭和の働く喜びは、あの熱気の中にあったのだと思う。
うまくいかないことも多かったが、その繰り返しの中で、少しずつ自分が鍛えられていった。人とぶつかり、助け合いながら働くうちに、いつしか「自分も誰かを育てたい」と思うようになる。それが、あの時代の働きの循環だった。
仕事をするのはヒトである。人を育てる文化を築くことは、企業にとって最も大切なことだった。経営の最上位の課題は、「人をどう育てるか」。それが、昭和の会社には確かにあった。
あの時代の働き方を今の人たちすべてができるとは思わない。妻が専業主婦で、私を支えてくれていたからこそ成り立っていた部分もある。それでも、当時のカイシャには、「人を信じ、時間をかけて育てる」という文化が確かにあった。
今はそうではなさそうだ。
いつ、何が変わったのだろう。
──おそらく、バブルとその崩壊の頃、「新時代の日本的経営」という言葉が流行り始めたあたりからではないか。