女性の過労死(10)
「生存権のわな」
竹信 三恵子
たけのぶ みえこ 朝日新聞社学芸部次長、編集委員兼論説委員などを経て和光大学名誉教授、ジャーナリスト。著書に「ルポ雇用劣化不況」(岩波新書 日本労働ペンクラブ賞)など多数。2009年貧困ジャーナリズム大賞受賞。
長い職業生活と企業取材で私が直面してきたのは、家庭責任を抱えることが多い女性の働き手を度外視して長時間労働を強いる、日本の現実だった。
だが、前回紹介した左派論客の男性は、「エリート女性記者が、家事や育児との二重負担ごときを女工哀史になぞらえるのは、女工の苦しさを知らない者のぜいたく」と切って捨てた。
家事やケアを妻に依存している人々にはその負担度は理解できない。さらに、「社会運動を担ってきた自分はお前などより女工の苦しみをよく知っている」として、女性だけに家事育児を負わせている男性としての自らを免罪したい無意識もあったかもしれない。
ただ、こうした言説は、男性にとどまらない。1990年代、過労死にくわしいと聞いた女性の弁護士にもこう言われた。
「家事や育児などの生活時間が保障されていないことを問題にしている暇があったら、過酷な長時間労働で死んでいく人たちの本当の苦しみを書きなさい」
戦後の労働運動は、家も食物もない生存ぎりぎりの状態を脱することから始まった。それ自体は正当なことだ。だが、そうした狭義の「生存権」に傾いた運動は、人が生活を楽しみ、安心して子どもを育て、かつまともな賃金を受け取るといった広義の生存権(人としての尊厳)を、「ぜいたく」の領域に追いやっていたのではないか。
女性の過労死に、メンタル疾患から来るものが多いのは、こうした土壌と関係があるのではないか。
非正規女性がテレビで生活苦を証言した際、「口紅をつけて出て来る余裕があるなら貧困はうそでは」と責める反響が来たという。狭義の「生存権」のわなから過労死問題を解放しきれていない現状は、低所得者をこそ苦しめている。