前田功   昭和サラリーマンの追憶

 

        大学授業料無償化の幻想  

       


 

 

 まえだ いさお 

元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表 


 

 東京都立大学の授業料が、都民に限ってではあるが、ゼロになった。大阪公立大学(旧・大阪市立大学と府立大学の統合校)も、来年から授業料と入学金を全額免除するという。

 この話を聞いたとき、どこか懐かしくもあり、「ようやく大学が庶民の手に戻ってきたか」と思いたくなった。

 

 昭和の高度成長期、日本はまだ“貧しくて希望がある国”だった。私が大学に入ったころ、国公立大学の授業料は年間9千〜1万2千円ほど。一方、私立大学は10〜20万円。親に経済力のない高校生は、当然のように国公立大学を目指した。授業料の安さは、社会階層を上昇するためのメインルートだった。

 私自身、父を早く亡くしたため、私学は初めから選択肢になかった。国公立なら、母に無理をさせずとも進学できると考えた。浪人は許されないが、一期校がだめなら二期校がある――そう思って受験に臨んだ。授業料は年2回に分けて納める仕組みで、2〜3日アルバイトをすれば支払える額だった。地方出身で下宿生活をしながら、親からの援助を受けず、奨学金とアルバイトで学生生活を送っている友人もいた。

  戦後の教育改革は、「誰もが学べる社会」を目指していた。親の収入に関係なく、「勉強すれば報われる」という希望が、社会の中に生きていた。学歴があれば、大企業に就職できた。身分や出自に関係なく、誰もが努力によって未来を切り開ける。教育は、社会的な階層を乗り越える切符だった。

 しかし、国公立大学の授業料はその後、値上げを繰り返し、現在は年間54万円強。入学金を含めれば初年度で80万円を超える。もはやアルバイトで何とかなる額ではない。

 平成・令和の授業料高騰は、「努力すれば報われる」と言えた社会を、「努力しても届かない」社会へと変質させた。奨学金も、普通の学生にとっては事実上の借金である。

  そんな中での「授業料ゼロ」は、確かに歓迎すべき政策だ。教育の門戸が広がったように見える。だが、それは本当に「公平」への一歩なのだろうか。

都立大や大阪公立大を受験するには、普通の高校生の場合、進学塾や予備校に通わなければならない。これらは今や補助的な学習機関ではなく、受験突破の“前提条件”となっている。

 昭和の頃は、塾はあくまで補助的な存在だった。しかし今では、塾なしでは戦えないのが現実だ。

 国公立大学の入試では、共通テストに加え、英語・数学・国語などの記述力が問われる二次試験が課される。これに対応するには、専門的な対策が必要であり、塾や予備校の支援が不可欠だ。その費用は、年間数十万円から百万円を超えることもある。模擬試験、教材、特別講習、個別指導――そのすべてが「追加課金」の対象だ。進学塾や予備校のビジネスは、子どもの未来を商品として売る構造になっている。「わが子のためなら仕方ない」と思う親の心理を巧みに突いた、無制限にお金を引き出すビジネスだ。

 

 かつて「格差を埋める手段」だった大学教育は、今や「格差を再生産する装置」になってしまった。進学塾、予備校、模試、家庭教師――それらは“努力の補助具”ではなく“努力の前提条件”となっている。親の経済力が子の学力を決定し、親の学歴が子の進路を誘導する。そして、親の階層が子の階層を固定する。

 

 「無償化された大学」に入るためには、「有償の塾」を経由しなければならない。教育の無償化は、スタートラインから始めなければ意味がない。大学の授業料だけを無償にしても、それ以前の受験準備が有償である限り、格差は温存される。

むしろ、無償化された大学が「塾に通える層」だけの特権になりかねない。

 

 メディアはこの問題をほとんど論じない。授業料無償化の話は「希望の光」として報じられるが、その裏にある「受験ビジネスの肥大化」には触れない。

 

 ここで、あえて「普通の高校生」という言葉を使ったのは、東大生の中には塾に通ったことがないという学生が一定数いるという話を聞いたからだ。東大は日本で最も人気の高い大学だから、余裕でパスするレベルの学生――いわば“上澄み層”が何%かはいると想像できる。この層は、家庭の教育環境が抜群に整っている。私にはイメージが浮かばないが、受験塾に行くよりも自宅で家族と接している方が受験に役立つ――そんな教育環境に包まれている高校生がいるようだ。「親ガチャ」で最高に当たった層である。

 家庭環境の差は、能力や努力では埋めがたい。これが社会階層の固定化につながっている。明治維新で出自による身分制度は廃止されたはずだが、平成・令和の時代の今、生まれながらの要素が人生を決める状況になってきている。 

 喧伝される能力主義の名のもと、出自に左右される「身分」が社会を覆い始めている。