守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


   「あの歌も、この曲も実は戦争の歌だった 童謡、愛唱歌の謎」(合田道人 笠間書院)という本を読んだ。

 「かもめの水兵さん」や「桃太郎さん」、「汽車ポッポ」が少国民の国威発揚の歌だったのは知っていたが、「蛍の光」に四番まで歌詞があって、それが戦況と共に変わっていったことは初めて知った。1881年(明治14年)発行の「小学唱歌集初編」では『千島の奥も沖縄も 八洲の内の護りなり』であったものが、日清戦争の後には『千島のはても 台湾も』となり、さらに日露戦争後は『台湾のはても 樺太も』に変わったのだそうだ。卒業式の定番、或いは、映画「哀愁」で流れる「別れのワルツ」だと思っていたけれど、まさに歌は世につれ…時代と共に変わっていくものなのだ。いや、変えられていくものなのだ。
 さらに驚いたのは、『ここは御国を何百里…』で知られる「戦友」は、唱歌として発表されたということだ。1905年「学校及家庭用言文一致叙事唱歌」として刊行されたのだそうだ。14番まである長い曲で、出撃する玄界灘で知り合い、一本の煙草を分け合い励まし合った友が撃たれ、心ならずも置き去りにして前進し、後に遺体を見つけて葬り、落涙しながらそれを遺族に伝える手紙を書くという内容だ。こんな歌を子どもが歌った時代があったなんて信じられないが、母も小学校で軍歌を習っていたと言っていた。しかも、戦争に行って死ぬこと、或いは戦死した友の遺体を埋める穴を掘ることがロマンであるかのように美化され、兵隊になることが子どもの憧れを誘ったというのだから、教育とはなんと恐ろしいものかと思う。
 そもそもこの本を読もうと思ったきっかけは、8月にNHKで放送された「音楽はかつて”軍需品”だった」という番組を観たからだ。
 およそ80年前に書かれた戦時楽曲の楽譜253点がNHKで見つかったという。山田耕筰を始め、服部良一、小関祐而、斎藤秀雄など当時日本のクラシック音楽界を代表する作曲家たちが軍事楽曲を作っていた。1937年9月に始まった国民精神総動員運動によって軍から依頼されたもので、題名は「敵国降伏」、「聖戦」、「神の軍」等々。内閣情報局は公然と『音楽は軍需品なり』と発表している。いずれもタイトルと歌詞が違えば、今日聞いても勇壮で格調高い曲だ。中には「学童疎開」という名の可愛らしい曲さえある。極めつけは「沖縄絶唱譜」。オーケストラの演奏だけを聞けば荘厳で美しいレクイエムだが、歌詞は沖縄守備隊第32軍司令官だった牛島満の辞世の句だ。放送されたかどうかは定かでない。どちらにしても、そのころ沖縄ではとっくにラジオ放送などできなくなっていたから、この曲を聞いた人がいるとしたら本土の人だ。沖縄が捨て石にされていたことも、どれ程の犠牲を強いられたのかも知らされず、それでも『牛島中将は立派な最期を遂げた』と信じて、ますます敵愾心を強めていたのだろう。番組で沖縄国際大学の前泊博盛教授は、沖縄の犠牲までもが戦意高揚に利用されたとコメントしている。政治学者で音楽評論家の片山杜秀氏が、『音楽は人間を駆り立てる道具になる。だから使い方によっては危険だ』と語っていたのが強く心に残った。
 戦争はあらゆる手段で市民の精神と常識をコントロールしようとする。音楽ばかりでなく絵画も演劇や映画も、落語や漫才も、童話や紙芝居に至るまですべての文化が戦争遂行の手段として利用された。そんな時代になったら、それを拒んで生活することはできないのかもしれないけれど、戦争に協力した人々はどんな思いでその後の人生を送ったのだろう。戦後も音楽界で活躍した作曲家は、罪の意識を感じなかったのだろうか。
 私は歌で生活費を稼いでいるわけではないから、戦争に協力するくらいならもう歌うのをやめる。でも、好きな歌を歌わないのはとても苦しいことだろうと思う。だから、絶対にそんな世の中にしたくない。戦争を止めよう。なんとしても止めよう!