今月の推し本

 

 『昭和問答』松岡正剛・田中優子 岩波新書2039


                       

         岡本 敏則

 

    おかもと・としのり 損保9条の会事務局員

 


『日本問答』『江戸問答』に続く二人の最後の「問答集」。松岡さんが逝ってしまわれたから。

 

 松岡正剛氏1944年生れ、雑誌『遊』編集長として名を馳せた。田中優子氏1952年生れ、法大総長を7年勤め、現在は名誉教授。昭和と改元されてから今年で100年、戦後80年になります。昭和という時代を4つに区分しています。①昭和元年(1926)~戦争の時代(約20年)②昭和21年(1946)~戦後体制構築の時代(約10年)③昭和30年(1955)~高度経済成長時代(約20年)④昭和48年(1973)~見直しの時代(現在に至るまで続く)。

 

 ―戦争の時代―

 ◎日清戦争=対清強硬論を煽ったのはメディアに先導された世論も大きかったんじゃないですか。戦争を起こしたときに、非常に国民が熱狂したということを陸奥宗光は書いています。あきれるほど熱狂している。国が一体となって何か一つの目標に向かうなんて言うことは、幕藩体制ではありえなかった。こうした欲望のもとに国民が一体化した経験を明治日本が持ってしまったことも、この後の昭和日本の行方にとって大きかったと思います(田中)。

 ◎国民国家=国民国家になるということは、戦争国家になるということですが、今もそういう自覚を持っている日本人はあまりいないでしょう。いま自衛隊を派遣するときに必ず日本はどこまで巻き込まれるのか話題になりますね。自分の身近な人が戦争に行くのは絶対嫌だから戦争反対という理屈をよく聞きますが、もともと国民国家というものは「戦争含みの国家」なんです。そこだけを都合よく外して国家であり続けるわけにはいかない。戦争国家としての自覚がないまま戦争に向かってしまったことが、その後の昭和の戦争のていたらくを招いたようなものだからね(松岡)。

 

 ◎国体明徴=国の統治権全体を天皇に委ね、国民も天皇に絶対の忠誠を誓うという方法ではっきりさせようとした。逆に言えば「国体」というものには神話以外に歴史的根拠がなく、はっきりしないからモヤモヤしている人たちがいて、天皇を絶対視することによって「はっきりさせたい」という訳でしょう。これはいまだにある権威主義の正体ですよ。権威主義というのは依存です。権威あるものが全て決めてくれれば何も考えなくてよい。責任を問われない(田中)。

 

 ◎差別と序列=挙国一致体制のなかではいろいろ民族差別が起こる。韓国併合以降、当然朝鮮民族がどんどん日本に働き口を求めて入ってくるわけですね。中国人も入ってくるし、もちろんアイヌも沖縄の人たちもいるわけだけれども、そういう国内の多民族的な状況に対しても何もしない。ただ序列の中に置いておくだけ。日本は戦後も、そういう多様性の受け入れを一度もちゃんとしたことがないと思います(田中)。「序列さえつくっておけば、秩序は守られるという発想なんだろうね(松岡)」。

 

 ―本を通して昭和を読むー

 両氏は生い立ち、学生時代―政治の季節―を語り、お互いが推薦した本を語り合った。

 ◎井上ひさし『表裏源内蛙合戦』=①「表裏源内」が描いていることは、遊郭というのはつまり言葉の問題だったということです。遊郭というのは都市の中につくられた「もう一つの都市」なんですね。それが何によって成り立っているのかと言うと、遊女言葉です。ということは、これは言葉によって別のコミュニティが成り立つということを言っているのと同じで、そうであるなら言葉によって国家も変えてしまうことができる。遊女たちがみんなそれぞれにお国言葉を喋るくだりがある。その方言をなかったことにする。そうして、別なものをつくりましょうと遊郭言葉をつくってしまう。そうすると、そこに別のコミュニティが生まれてくる。そういう言葉の在り方を、井上さんは指摘した。これは遊郭論の白眉だと思っています(田中)。②戦後の高度成長期、読書界では司馬遼太郎が受けていたでしょう。読むと面白いけれど、その面白さは男が勝負に出るときの高揚感ですよね。それがビジネスマンにも迎えられた。リゲインという栄養ドリンクのコマーシャルで「24時間、戦えますか」というセリフが有名になったけれど、あれだよね。日清・日露を描いた『坂の上の雲』などは、全編がリゲイン(笑)。その後の日本は、戦争から降りられなくなっていった。井上ひさしさんはその矛盾を笑いにまぶして芝居にしていった(松岡)。

 

 ◎高村薫『新リア王』=面白かったですね、まさに戦後の昭和日本の政治家の世界なんですが、政治そのものについて書くのではなくて、たとえば砂防会館を出ると車がどんなふうに待機しているかとか、国会議事堂の議場がどんなふうになっているとか、前の方に新人議員がいて当選回数が多い議員はその後ろ、一番後ろには長老たちが座っているとか、そういうことをものすごく細かに書く。エレベーターに乗って誰と誰に挨拶して、降りると誰と誰に挨拶して、というようなことも全部書かれている。政治というのはこういう日常の積み重ねなんだということに気が付きました。つまり政治というのは世界について考えることではないし、これからの日本について考えることでもない、席次を気にしながら次の選挙のことを考え、挨拶しつづける。これさえ揺るがせにしなければ、政治家の地位は揺るがないんだということを書いてある(田中)。

 

 ―最後に― 

 今、じわじわと進んできた「新しい戦前」はその姿をはっきり見せる世になり、その過程を許してきた国民がどういう人たちなのか、その姿も見えてきた。それは「本を読まない・読めない」膨大な数の人々だった。都知事選では、政策を持たず、語らず、議論しない候補者が多くの票を集めた。ほとんどの都民は政策を出しても理解できず、長い話を聞くことができないからだという。2015年の集団的自衛権行使容認、2020年の日本学術会議会員任命拒否。2020年の「安保三文書」による、敵基地攻撃能力保有と軍事予算倍増。学問の排除を含んだかつての戦前とそっくりの経緯が、展開している。結果的に、本など読まず、時間をかけず、効率的に社会的な地位を得る競争に邁進する世の中になった。ますます競争から降りられず、ますます大樹に依存して、自立からは程遠くなった。本を読むとは、自らの座標軸を得ること(田中)。