盛岡だより」(2024.2 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                      文章のスタイル


 

 文章を書き始めたのは20代後半、私が労働組合の情宣部に就いたころからだった。

 当時の損害保険会社の組合は産業別組合で、「全日本損害保険労働組合」の傘下に各保険会社の組合が「支部」としてあり、支店ごとに「分会」があった。私は日産支部仙台分会の役員になっていた。

情宣紙は毎月発行していたが、1973(昭和48)年、文芸誌『青葉』の編集責任者になり発刊した。このときは、青葉神社の石碑から「青葉」の拓本をとって表紙に使った。1980(昭和55)年には、組合結成30周年記念誌『北嵐(ほくらん)』を編纂、その際にも責任者を務めた。題字は、毛越寺(岩手県平泉)にゆかりのある南洞氏にお願いして毛筆で描いてもらった。

 私の文章をつづる動機は、若いころに成り行きで就いたその役目からであった。

 

 東京に転勤になり、「社内報」を発行する部署の仲間と知り合い、「社内報はおもしろくない。もっと社員に読まれるものにすべきだ」と何度も注文をつけた。「そんなに言うなら何か書いてくださいよ」と返され、それにも書くようになった。

 同じころ、会社に出入りしている損害鑑定人から、朝日新聞社記者が指導する文章サークル『日時計の会』に誘われた。なんのためらいもなく入会したのは、書くことに興味があったからだった。

 会は、会員の作品合評が中心に運営され、作品は400字と決まっていた。メンバーはやさしい人ばかりだったが、作品への評は厳しかった。私が一番若い会員だったから手加減があったと思うが、「説明だけで、なにを言いたいのかさっぱり分からない」とか、遠回しに「言いたいことはこういうことではないの?」と批評された。

入会当時は、なぜ400字なのか分からなかったが、それを理解できたのは、メンバーの作品を編んで出版した『400の散歩』(昭和61年11月10日刊)の「まえがき」であった。主宰の小林博記者(故人)がこう書いていた。

 「俳句を十七文字に、和歌を三十一文字に読み込むのと同じように、散文を四百字に凝縮する努力が言葉えらびを慎重にさせ、文章を練り上げ、ひいては思索を深める訓練になる」 

 会には転勤になるまでの3年間在籍し、文章をつづる基礎はここで学んだ。

 

 広島県に転勤になって、「岩手日報」へ投稿した文章が掲載され、学芸部長から「いい文章です。書き続けてください」と励ましのハガキをいただいた。そのおだてに乗って、趣味を少し越えてその気になったのはそれからである。

 広島に4年、栃木に4年を過ごし、30年間の県外勤務を経て、平成8年に岩手に戻ってきた。

 それまでは、ふるさと岩手への望郷の思いを書いたものが多かったが、岩手に戻ってからは、その時々に感じたことを気ままに書いている。近年の10年は、同人誌、新聞や機関紙のコラム欄を担当し、月3編のノルマに追われている。

 

 何をどう書くか。題材を通して何を主張するか。いつも考えていることである。月の3本ともなると、それがなかなか出てこない。締め切り日が迫っても書けないと、部屋の中をウロウロしながら考え込むこともある。

 ものの本には、まず題材を探し次にそれをどう書くかを考えなさいといっている。だが、私の場合はちょっと違うのである。書く題材は、自分のなかにある「なぜ?」「どうして?」という疑問と問いを探すことから始まり、次にそれに関連する事象を探して答えらしきものをイメージする。いつも、そんな漠然としたものを探すのだから、探すというよりも、ひたすらひらめきを待つ感じになるのである。

 運よくひらめきがあって、書こうとした題材が見つかったときには、文章の「結び」も見えて、大まかな構成も決まっているといってもよい。あとは肉付けをしながら文章をつづり、最後はひたすら整えるだけである。

 

 文章のスタイルは、人さまざまである。物語り風に書く人、感動を素直に表現する人、人間の機微をユーモアたっぷりに作品にする人。意外な視点からものごとを論じる人。私にはそのようなエッセイはどうしても書けない。そもそも、私が選ぶ素材の多くはひらめいた疑問であるから、それに対する自分の答えを読者に問うような文章になってしまう。そこには、読者を説得しようとする意図があるから、どうしても、理屈っぽい文章になる。

 これは、組合の情宣紙などに意見のようなものばかり書いてきたから、ものごとを批判的に見ようとする思考が身につき、表現するより訴える文章になっていったのではないかと思っている。

 

 この文章も、自分はなぜバリエーションのある文章が書けないのか? という自分への「問い」から生まれたものである。50年もかかっている私の思考方法と文章スタイルだから、今となってはもう変えようがない。というのがその問いに対する「答え」なのである。