松久 染緒「随感録」


まつひさ・そめお 元損保社員、乱読・雑学渉猟の読書人で、歌舞伎ファン。亥年生まれ。        


              公正・正義はいずこに

     2008年米国の情報公開で、判決前に最高裁長官が米国大使と非公式に会談し審理について話したという米公文書の存在が2008年来わかっていたため、当該裁判で有罪とされた被告団がおこした、不公正な裁判で被った損害の賠償請求訴訟の今年1月中旬の東京地裁の判決が、注目されていた。

 最高裁長官(田中耕太郎)が米国大使と事前に会い審理の情報を伝えた、これだけでも違法であり極めて問題なのに、実際には、米国大使から、米軍の日本駐留を違憲とした一審判決をくつがえし、最高裁大法廷の裁判官の全員一致で合憲にせよなどと指揮されていたのだ。

 こんなとんでもない外国による支配介入に基づく不公正な裁判に対する損害賠償請求訴訟において、東京地裁は、元長官の行為の違法性を認めなかったばかりか、「元長官が米国大使に対して何らかの言及をしたとしても、事件に予断や偏見をもたらす特別な関係があったり、裁判手続き外で判断したりしたとは認められず、憲法が求める「公正な裁判所」でなかったとはいえない」という、全く的外れで、国民が裁判や裁判所に求める公正さを裏切る判決だ。

 最高裁大法廷は、砂川事件の当初の裁判について、米軍駐留自体は「高度な政治性があり、司法判断になじまない」(いわゆる統治行為論)として、上告を棄却し、最終的に有罪が確定した。要するに憲法上、「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」(憲法第81条)最高裁判所が、政治におもねってあるいは米軍にビビッて自主判断から逃げたのだ。

 「司法の独立」はいったいどこに行ったのか。また憲法第76条には「すべて裁判官はその良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」とある。

 昔は庶民にとって裁判の最後の公正・正義を期待する「まだ最高裁がある」という言葉があったが、いまの現実は、政治におもねる最高裁、良心と法律以外のものに支配・拘束される裁判官・裁判所ではないか。カネまみれ・嘘まみれの政治には愛想もつき、信用・信頼もなく、とうにあきらめている。いったい私たちは何をよりどころに公正・正義を求めたらいいのだろうか。