盛岡だより」(2024.1 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                      味覚


 社会人になってからの昼食は、ほとんどが外食であった。58歳で妻を亡くしてからも、それは続いている。

 生まれて25年間は岩手に住み、転勤で仙台に。17年間は宮城に住んで、その後、東京3年、広島4年、栃木4年と渡り歩いて52歳で岩手に戻ってきた。食に関しては好き嫌いがなく食に執着しない質(たち)だから、昼食はいつも同僚まかせで彼らについて行くだけだった。

「今日は、○○の定食にしましょう」と言われると「そうだな」。「○○ホテルの中華にしましょうか?」と聞かれると「そうしよう」と応えるだけだから、どこでも不自由は感じなかった。それだけに、その地で何を食べてこれが美味しかったという記憶があまりない。思い返しても、本当に少ない。

 

 仙台では牛タン定食をよく食べた。東京では職場が国会議事堂の近くで食堂が少なく、だいたいがホテルの中華料理だった。広島ではうどんと海鮮料理が多かったが、水槽で泳ぐイカ一匹をすくい取って焼いてくれる定食をよく食べた。栃木での記憶はいくら思い出そうとしても出てこない。

 どこでも、日本蕎麦は食べていた。

 日本には蕎麦圏とうどん圏があるようで、広島では探すのに苦労するほど日本蕎麦の店が少なかった。その広島から栃木に転勤になったとき、栃木の蕎麦つゆが、えらく塩っぱいと感じたものだった。店のひとに頼んでお湯で薄めてもらったこともある。うどんの薄味に慣れていたからだろが、それもすぐに気にならなくなった。

栃木から盛岡に戻ってきた直後も、盛岡はさらに塩っぱいと感じた。東北地方のひとたちは塩分を摂り過ぎるといわれているのも、もっともだと思ったものである。だが、さすがに、「薄めてください」とは言えなかった。

 

 命がけで食べ物を探していた私たちの祖先は、味覚など五感を発達させて食べてもいいのかどうかを判断してきた。食べ物の見た目や形を眼で確認し、次に鼻で匂いを嗅いで調べ、最後に口の中で味を感じて飲み込む。味覚というのは、「食物の安全を確かめる最終の生体センサー」なのである。だが、食べられるものと知っていても、初めて経験する味ではつい吐き出したりするが、食べているうちに、好きになったりもするものだ。

 私に好き嫌いがないといっても、イナゴの佃煮は食べたことがあるがだめだった。蜂の子やカイコ、ザザムシ、最近はコオロギの佃煮もあるようだが、匂いとか味より先に、見た目だけでおじけつく。

けれども、それらも商品として売られているから、好む人だっているのだ。好みはほとんど「慣れ」なのである。

 

 中国地方から関東へ。関東から東北へと移るたびに蕎麦汁の塩分が濃くなっていた。

 塩分を摂り過ぎると、高血圧・脳血管と心血管障害の危険が増し、東北にはその疾患者が多く死亡率も高い。それは、寒さに対して体を保温するために多目の塩分が必要だったことと、1000年以上も続いてきた食材を塩で保存する風習だという。

 今、醤油・味噌・梅干し・漬物などの食材に「減塩」の取り組みを見ることができる。だが、東北人の味覚が「薄味」に変わるのは、たぶん、世代をまたぐような長い時間を要するだろう。

 なぜなら、味の違いは食べ比べてみないと気づかないものであるし、慣れた味がいちばん美味しく感じるものだからだ。

 

【名物・わんこそば】

わんこそば」は、掛け声とともに一口量のそばを次々と椀へ投げ入れ、食べた椀数を競う、岩手の名物そば料理です。