盛岡だより」(2024.6 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                      蛍


 清少納言は、四季の「趣」は春が「あけぼの」で、夏は「夜」だと『枕草子』でいっている。

 その部分を要約すると、(夏は夜がよい。満月のときはもちろん、月が出ていない闇夜だってそうだ。たくさんのホタルが飛びかっているのも、1つ2つと、ほのかに光って飛んでいるのも趣きがある。雨の降る夏のだって捨てがたい)と、特にホタルの舞う夜を強調している。

ホタルは多くの和歌に詠まれ、伊勢物語や源氏物語にも出てくる。その時代、外灯などなかった夜は暗い。そんな夏の夜、満月に照らされた光景は幻想的であったろう。だが、多くは闇夜だ。暗い夜ゆえに、ホタルの光は当時の人々の心を和ませ、癒し、幽玄の世界に誘うものでもあったのだ。

 

 私が幼なかったころ、生家(岩手県紫波町)は田んぼのなかにあって、付近の水辺ならどこにでもホタルがいた。田んぼの上を光ながら流れるように飛び、草むらでは光が息づいていた。そのホタルを捕まえて、蚊帳の中に放して遊んだりもした。

昭和30年ごろから始まった区画整理事業で、田んぼは広い四角形になり、農道はまっすぐに伸びて農村風景がすっかり変わった。その後の「農業基盤整備パイロット事業」で農業用水はパイプラインになり、堰がなくなり排水路だけになった。農業の近代化とともに、イナゴやトンボ、ホタルが消えてしまった。それでも、里山の水辺には今でもひっそり飛び交っているようだ。ホタルの命は短く、乱舞するさまを見るチャンスがないまま、50年以上も経っていた。

 

 平成21年6月だった。旧玉山村(現盛岡市)に住む同僚から「ホタルを見に来ないか」と誘われた。家の前に20メートルほどの深い堰があって、無農薬で稲作を続けていたら2年ぐらい前からホタルが現われ、今年は大量に飛んでいるという。夜8時ごろが見ごろというから、その時刻に合わせて30分ほど車を走らせた。雲の厚い暗い夜だった。すでに、同僚家族や近所の人たち10人ほどが庭に集まっていた。最後に隣家の人が見えたところで、堰に移動した。

 土手のあちこちで息づく光が見え、暗い堰の中では光がもつれていた。ときどき、堰の上に光がふわりと飛び出て、渡ってくる風に流され闇に消える。風が止むと堰の光がさらに増し、もつれた光が堰の上にあふれ出る。子供たちは声をあげてそれを追い、土手の草むらで捕まえたホタルを両手に包んで覗き込んでいる。

 

 しばらくして、近所の奥さんが小声で歌いだした。

 

 ♪ 蛍のやどは 川ばた楊(やなぎ) 楊おぼろに 夕やみ寄せて……

 (この歌知っている) と、遠い昔の記憶がいきなり飛び出してきたような驚きがあった。昭和7年に発表された文部省唱歌『蛍』(作詞・井上赳 作曲・下総睆一)である。

驚きはすぐに懐かしさに変わった。

 ♪ 川の目高(めだか)が 夢見る頃は ほ、ほ、ほたるが灯をともす

 目の前の光景を眺めながら、その歌を聞いていた。その懐かしさはしだいに寂しさに変わっていった。

 用水路の整備でこの堰もいずれコンクリートのU字側溝になると聞いていたから、このホタルもそのときまでの命なのだ。ホタルたちは、はかない命と知らずに息づいているが、つないでいける命はあと何年なのか。ホタルが消えるということは、忘れてしまいそうだったこの歌も消えてしまうということなのか。そんな寂しさだった。

 

 ホタルを見たのも、あの歌を聞いたのも、15年も前のそれが最後である。ホタルの季節になると、いつもあのときの光景を思い出す。そのとき、決まって寂しさがついてくる。

 

 同僚は間もなく定年退職した。気になって聞くと、ホタルはコンクリートの水路に

なるまで10年近くもあの堰で命をつないだそうだ。