「松川事件」と本田昇さんのこと

 

           加藤 段一

 

 


 かとう・だんいち  中央大学商議員・同大学三十年会幹事長 元全損保本部副委員長(日動外勤支部出身) 


  最近、「昭和天皇拝謁記」の中に、松川事件は「アメリカがやり、共産党のせいにした」との記述があったと報じられ話題になっていますが、私は、死刑囚から無罪を勝ち取った本田昇さんとの交流の中で、この事件が冤罪であり、占領軍の謀略であることを確信していました。

 私が本田昇さんと知り合ったのは、私の姉の知人が軽犯罪で仙台拘置所に拘束されたことが縁でした。昭和31年(1956)ですから、私が日動火災に入社する以前のこと。その出会いがきかっけで、私は当時、勤務先があった神田神保町の書店を中心に「神田松川守る会」を結成して、無実の罪を着せられた本田さんたちを守ろうと奔走しました。そして昭和36年8月8日、仙台高裁の差し戻し審で被告全員の無罪を勝ち取り、私も仙台青葉城公園で開催された勝利集会に参加し、23歳で死刑判決を受け、12年間の拘束から解放された本田さんと、固い握手を交わしたものです。

 

 その日から56年後、本田さんのホームページを開いたところ、真犯人に結びつく情報が目に留まりました。それは、事件当日の昭和24年(1949年)8月17日未明、脱線現場付近を通りかかった福島県渋川村の斎藤金作さんが12人ほどのアメリカ兵が枕木からレールを外しているのを目撃したという話です。その直後、斎藤金作さんは自宅までつけてきた男に「目撃したことを口外するな」「アメリカの軍事裁判にかけられる」と警告され、さらに、5日後、見知らぬ男からCJC(対敵諜報部隊)に出頭するよう求められたため、恐怖を覚え、横浜の弟の博さん宅へ身を隠したのですが、その後、行方不明となり、40日後に入江で死体となって浮かんでいるのを発見されたというのです。さらに、数日後、別の見知らぬ男が博さんを訪ねてきて、10万円の現金(当時としては大金です)を渡し、「兄の金作さんの不幸については何も言わない方がいい」と告げたというのです。博さんはその後郷里の福島に移住しましたが、不安と恐怖にさいなまれた悪夢のような日々を送った、ということです。

 

 松川事件は、当時の占領軍が日本の革新勢力の台頭を抑えるために仕組んだものです。それは、広津和郎氏や松本清張氏など、多くの識者の指摘であり、本田さんたちのもとに寄せられた、前記の新しい事実などによっても鮮明に裏付けられています。

本田昇さん著「松川事件 60年の軌跡」には、そうした「新事実」や仙台高裁で「無罪判決」を出した門田裁判長が、福岡家裁に配転されたこと、その後、新橋駅で本田昇さんと偶然再会して親交を深めた経緯など、さまざまな興味深いエピソードも満載されています。 


 松川事件=福島県松川町を通過中の東北本線上り列車が脱線転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。当時の増田内閣官房長官は談話で「事件は三鷹事件など各種事件と思想的底流において同じである」と言明し、国鉄労組組合員10名、東芝労組10名が逮捕起訴され一審では20名全員に死刑判決(最終的に全員無罪)が出た戦後最大の冤罪・謀略事件。「松川事件」は「下山事件」「三鷹事件」とともに「戦後日本の黒い霧」といわれた。