盛岡だより」(2023.9 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                      五公五民


 

  テレビなどで「五公五民」とか「六公四民」ということばを聞くようになった。これは江戸時代の年貢(ねんぐ)率を表したことばで、五公五民なら収穫米の5割を年貢として上納し、残り5割が農民の手元に残るということである。

【三閉伊一揆】(田野畑村民族資料館)

 

 江戸時代の初期は「四公六民」だったものを、徳川家康が「百姓共をば、死なぬ様に生きぬ様にと合点致し、収納申し付る」といって、享保年間(1716~36)に五公五民に上げた。それを反当たりの収量が増えたからとさらに六公四民にしていった。

 当時の記録では、農民の生活は「三公七民」でかろうじて成り立つぐらいで、五公五民はかなり苦しかったようだ。それが六公四民になると翌年の種籾さえなくなるほどで、御法度の隠田(おんでん)を開拓する者や、百姓をやめて逃散(ちょうさん)する者も出てくる。厳しい年貢の取り立ては、その減免を求めて集団直訴・百姓一揆が全国で頻発するようになる。享保11(1726)年には、美作国(みまさかのくに)津山藩で世直し一揆と呼ばれる「山中一揆」が起きている。この一揆は、今井絵美子の小説「美作の風」が詳しい。

 天明年間(1781~)のころから一揆は組織化され、規模が大きくなり要求も多様になっていくが、一揆が全国で一番多く起きているのがここ南部藩であった。なかでも有名なのが天保7(1836)年に起きた「南部南方一揆盛岡強訴」、弘化4(1847)年の「三閉伊一揆遠野強訴」と6年後の「仙台強訴」である。これらに係る記録や書物は多い。

 

 財務省が発表している『国民負担率』では、令和4年度が(租税と社会保障費の実績見込み)47.5%で、財政赤字を加えた潜在的な国民負担率は61.1%と公表されている。とうとう、江戸時代における重税の象徴だった「五公五民」を超え、「六公四民」の時代に入りつつある。江戸の時代ならば、不作や飢饉ともなれば一揆のおこりかねない状況なのである。

 国民負担率が増えると、経済成長と家計にマイナスになることは明らかである。生産力が江戸時代とは桁違いに大きい現代では「四民」でも庶民が直ちに死活問題とはならないかもしれない。だが、実質国民所得がマイナスを続づけるなら、そうはいっていられなくなる。諸外国とくらべて率はそう高くないというが、問題は率ではなく所得総額の低さである。労働者平均年収(2021年・OECD統計)は、欧米諸国が高いが日本は24位とランクを下げ、21年前から3%も伸びていない。今、日本の現状は、一揆が頻発した時代と比較されるほど深刻だということである。

 

 今は江戸時代とは違い、主権は我々にある。政治は主権者である国民の代表者によって行なわれ、その代表者を選ぶのが選挙である。それは学校で習うから誰でも知っていることだ。だが、国民の生活が貧しくなっているのはなぜか。決してそれを望んで代表者を選んだわけではないはずである。

 残念だが、主権の行使が食堂のメニューから好きな料理を選ぶように代表者を選んでしまった結果、逆に「統治されやすい主権者」になってはいなかったのか。

 

「六公四民」になろうとしている今、我々の付託に応える候補者を見極め、投票しなければならない大切なときである。