守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


     父が持ちだした被曝時計

 

 早いもので、7月で父・守屋和郎が他界して丸10年が経った。被爆して顔に大やけどを負ったのに、82歳までよく生きたものだ。もし父が今の世の中を見たらなんと言うだろうかと、この頃よく考える。

 私がドイツ語を教えている俳優さんが原爆の朗読劇をやるというので、父が8月6日に倒壊した自宅から唯一持ち出した8時15分で止まった置時計(写真は現物)を貸すことになった。彼女はとても積極的な性格で、憲法の学習会や沖縄の映画の上映会などの企画にも取り組んでいる人だ。それでレッスンの後原爆の話になったのだが、原爆が落とされたその後についてほとんど知らないことに驚いた。広島が原爆からわずか一か月余り後に枕崎台風に襲われたことも知らなかった。職場で20代から40代の人に聞いてみたけれど、このことを知っている人はいなかった。

 ちょうど今、一方で軍備増強が強行されようとし、他方では全国各地で自然災害が起きている時代だから、枕崎台風のことを知ってもらいたいと思う。(詳しく知りたい方は、柳田邦男「空白の天気図」新潮文庫をお読みいただきたい)

 枕崎台風は、1945年9月17日に鹿児島県の枕崎に上陸したメガ台風16号である。上陸後も勢力が衰えず北東に進み、四国、近畿、北陸を通過した。この台風で特に大きな被害を受けたのが、上陸地の鹿児島ではなく広島だったのだ。

 その原因は、第一に通信手段がすべて破壊され、九州からの情報が事前に届かなかったことにある。ラジオを持っている人もほとんどいなかった。また、広島管区気象台は少ない人員と不十分な機材で懸命に観測を続け、巨大な台風が接近しつつあることを予想はしたのだが、原爆によって壊滅した広島では電話も無線もなく、警察も消防も機能しておらず、住民に危険を知らせることができなかったのだ。第二には、戦争の間中、軍備ばかりに金も意識も集中して、川の浚渫や堤防の補強などの治水を怠ったためでもある。更には、松根油を作るために山の木々を乱伐し、植林しなかったことも挙げられる。その結果、呉市では数か所で住宅地に土石流が押し寄せた。佐伯郡大野町(現廿日市市)では陸軍病院が土石流の直撃を受け複数の病棟などが全壊し、患者や医師約180名が亡くなった。市内の平地では太田川の堤防が決壊し、バラックを建てて暮らしていた人々は、小屋もろとも濁流にのまれてしまった。ちょうど調査と研究のために広島に滞在していた京都大学と金沢大学の医師・研究者らも犠牲になった。全国で3,756名の死者のうち、2,012名(実際はおよそ150人位多いとも言われている)が広島県内での犠牲者だった。

 のちに広島市長となった浜井信三は、「原爆砂漠が一夜にして原爆湖水になった」と記している。父の同窓生の被曝者は、「原爆で火攻めにあい、枕崎台風で水攻めにあい、その後は兵糧攻めだった」と語っていた。父もまたこの苦しみと悲しみを乗り越えたのだと思うと、改めて、本当によく生きてきたものだと嘆息する。

 

 戦争は悲劇の連鎖を生む。たとえ勝ったとしても、失われた命は帰ってこないし、破壊された生活インフラもゲームのように簡単にリセットされるわけではない。守られるべきは国体ではなく、市民の安全と健康、財産、心の平穏だ。軍備でそれを守ることはできない。

 今年も各地で自然災害が続発し、コロナ禍と物価高騰で苦しむ市民に追い打ちをかけている。異常気象が「普通」になってしまっている今、やるべきことは軍拡でも原発推進でもない。そんな当たり前のことが分からない政治家に私たちの命と暮らしを委ねるわけにはいかない。

  岸田政権とそれを補完する政党に断固としたNO!を突きつけよう。

 

追記)父が持ちだした時計(写真)には不思議なオーラを感じます。この時計は要請があれば、原爆関係の催しなどに貸し出しをしています。