今月のイチオシ本

『力と交換方式』を読む 柄谷行人ほか 

 


                       

         岡本 敏則

 

    おかもと・としのり 損保9条の会事務局員

 


 今、マルクスの復権というか、読み直しが始まっている。この欄でも紹介したが、宇沢弘文(19282014)の『社会的共通資本』。斎藤幸平(1987)の『人新世の「資本論」』で、氏は後期マルクスを読み込むことで「コモン」(社会的に人々に共有され、管理されるべき富)という概念を導き出し環境問題等に取り組んでいる。白井聡(1977~)は『マルクス―生を呑み込む資本主義』で「包摂」という概念で現代資本主義社会を分析している。ここに新たな概念が加わった。柄谷行人(1941~)の『力と交換方式』(岩波書店 202210月刊)である。氏は『漱石試論』で批評家としてデビューし、その後『トランスクリティーク―カントとマルクス』『哲学の起源』『世界史の構造』を著している。氏の著作は英語、中国語、韓国語、仏語、独語等に翻訳され、世界中で読まれ論じられている。昨年12月にはアメリカのシンクタンクが「哲学のノーベル賞」を目指して創設した「バーグルエン哲学・文化賞」を授与された。賞金はノーベル賞と同額とされ100万ドル(現ルートで14千万円)。本書は『力と交換様式』についての解題を目的として、東大駒場での国分功一郎(哲学)、斎藤幸平(経済思想)がパネリストとなったシンポジウム、氏自身の講演、氏へのインタビュー、大澤真幸、東畑開人、佐藤優、鹿島茂氏等が『力と交換様式』を読むという文章で構成されている。では交換様式とは何か。 

 

 ◎交換様式=四つに分類されている。A―贈与と返礼、B―服従と保護、C―貨幣による交換、D―X。現在の世界は、貨幣による市場経済(交換様式C)によって立つ資本主義、そして国家(交換様式B)の二つが巨大な力を持っています。そして、今のような社会の在り方以外を想像することすら難しくなっている。互酬交換(交換様式A)の力が非常に弱くなっている。ただ、この資本主義と国民国家が大きな力を持つ近代以降の世界は、そろそろ限界に近づいているのではないか。一つの理由としては、資本主義の発展に不可欠なものが枯渇してきているからです。それは資本主義の限界というより、近代の在り方の限界です。いまの私たちの社会は、経済的格差と対立をもたらす「資本制」、共同性と平等性を志向するが、閉鎖的で束縛的である「ネーション(国家)」、規制や税の再分配で格差の是正を図る「国家」という異なる原理を接合したものです。それを私は「資本=ネーション=国家」と呼んでおり、交換様式で言えばACですが、その限界が近づいている。
 *「力」=A―呪力・B―権力・C―資本の力・D―国家を揚棄する力


 ◎
マルクスの「可能性」との出会い=1960年大学(東大経済学部)に入ったころ新左翼には大まかに言うと三つの流れがあった。一つは初期マルクス(疎外論)に向かうもので、詩人・文芸評論家吉本隆明(19242012)に代表される。もう一つは、史的唯物論を、初期マルクスを超克するものとして読み直し再建しようとするものであり、哲学者廣松渉(19331994)に代表されます。第三に、マルクスの独自性を『資本論』に見出すもので、経済学者宇野弘蔵(18971977)に代表されます。
 

 ◎宇野弘蔵との出会い=大学に入ったころ宇野弘蔵の『経済原論』に突き当たった。宇野は日本を代表するマルクス経済学者ですが、マルクス主義者が一般に生産を重視したのに対し、交換(流通)を重視した。その意味で今も私は「宇野派」ですね。物と物との交換は、簡単に実現することはありません。マルクスは〈交換は共同体と共同体の「間」で始まる〉と書いています。つまり交換とは共同体の内部ではなく、本来、見知らぬ不気味な他者との交換であり、それが成立するためには相手に交換を強制するような「力」が必要なのです。マルクスはその「力」を「フェティシズム」(物神崇拝)と呼んだ。さらに、マルクスは、お金には物神が付着すると考えた。以来、お金というものが持つ謎の力が何かを理解するためには、交換という観点が不可欠だと、私は考えるようになりました。
物神(フェティシズム)=ほとんどのマルクス主義者は、物神(フェティシズム)の力を認めていないと思うんですよ。昔も今もそうです。なぜか、そのような力を認めないことが、合理的な判断だと思っているからです。物神の力がいかに強いかが、まったく理解されていない。この力は、交換様式AにもBにもあります。そしてCについて考えていたのがマルクスです。貨幣にも物神の力は付着しています。そのことを、マルクスは書いたわけです。多くの経済学者たちは、すべて数学的に計算すれば科学的であると考えている。その時点で、まともに考えることができなくなっています。

 

 ◎今流行りのAIについて=今日人々が好んで論じているのは、AIやその他の科学技術の発展で社会がどう変わるか、というような問題です。それは「生産力」にもとづいて社会構成体の歴史を見る史的唯物論の考え方を、そうとは知らずに受け継ぐものです。そこには社会構成体の歴史が人間と人間との「交通」および人間と自然の「交通」にもとづくという認識が欠けている。さらに、交通が生産力だけでなく、観念的な「力」を生み出すという認識が欠けている。したがって、交通=交換から諸問題を考え直すことが喫緊の問題なのです。