守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


 唱歌

 4月1日、練馬区江古田のギャラリー古藤で「新しい戦前にしないために 『おとなのための紙芝居』」という催しがあった。古藤は2015年に全国で最初の表現の不自由展を開いたギャラリーで、武蔵大学の永田浩三さんやアニメの有原誠二さんと共同した映画祭や草の根文化活動で知られている。私も主催者のお誘いを受けて三回目の出演をした。

 今回選んだ曲目は「Human Rights」、「平和の暦」、「ふるさと」、「原発はいらない」、そして「ひとりの手」。いつもは拳を固めるような歌が好きな私が「ふるさと」を選んだのは、主催者から小学唱歌を歌って欲しいと言われたからなのだが、正直なところちょっと戸惑った。子供のころから親に連れられてメーデーや赤旗祭りや歌声喫茶に行っていたから、昔の労働歌やロシア民謡はたいてい知っているけれど、唱歌を歌った記憶がないのだ。小学生の時にはもうジョーン・バエズやピート・シーガーを聞いていた。学校で歌ったのは「大きな古時計」とか「手のひらを太陽に」だったと思う。「庭の千草」とか「埴生の宿」など昔の女学校で歌われた歌は知っているけれど、唱歌と言われてもどうもピンとこない。

 それで母に『小学唱歌ってどんなのがあったっけ?小学校で何を歌ってた?』と尋ねたら、母は少し考えて、『唱歌なんて歌わなかった。小学校で歌ったのは軍歌だった』と答えた。母が生まれたのは1931年、満州事変の年である。小学校に入学したのは日中戦争が始まった1937年だから、文字通り生まれたら戦争で、14歳で敗戦を迎えるまでずっと軍国主義で育ったわけだ。当時は子どもが学校で「勝って来るぞと勇ましく…」などと歌うのが当たり前だったのだ。

 それでわかった。私が唱歌を知らないのは、うたごえ運動に浸っていたせいと言う以上に、親が唱歌を歌っていなかったからなのだ。私の両親の世代は、戦後歌うべき子どもの歌を持たなかったということだ。だから母が家事をしながら歌うのは女学校で習った曲だったのだ。主催者のOさんは母より10歳年下で、戦後の民主主義教育を受けた人だから小学唱歌が懐かしいのだろう。時代によって子どもの歌もこんなに違うのだ。

 当日のステージで母との会話を紹介し、子どもが唱歌を歌うのは平和な時代の証しなのだと思うと話したところ、多くの人がうなづいてくれ、来場者、出演者、スタッフ全員で一緒に「ふるさと」を歌った。素人ばかりの合唱だけれど、それでも美しいと感じた。砂川闘争の時には米軍基地拡張に反対して座り込んだ農民たちが「赤とんぼ」を歌っていたそうだ。怒りを込めて声を張り上げる歌ばかりでなく、誰でもが歌える穏やかな曲も平和へのアプローチになるのだと改めて思った。

 子供のころから「戦争は絶対にいけない」と教えられてきたけれど、戦争はベトナムやイラクやアフガニスタンのような遠いところの出来事のように感じていた。まさか自分が生きている時代に、憲法九条を持つ日本で戦争の足音がこんなに身近に迫って来るとは思っていなかった。本当に恐ろしいと思う。でも、今ならまだ止められる。歴史を逆行させないためのあらゆる努力をするのがおとなの義務だ。おとなが子どもに美しい日本の歌を歌い継がせられるのも平和と民主主義が守られてこそだ。

 子供が学校で軍歌を歌う時代を再び来させないために、岸田政権の軍拡・増税を止めよう!