暇工作「生涯一課長の一分」

 

               裁判官の言い間違い


 3月2日、大津地裁の裁判長が、労働組合の争議事件にかかわる判決文朗読の際、「団結権」を「団体権」と言い間違えたそうだ。たんなる「言い間違い、読み違い」なのか。そうではないだろう。そもそも「団体権」などいう言葉などない。この「間違い」は裁判官の認識の現在地を正直に反映したものではないか。

 裁判官は労働三権を知識としては知っているだろう。だが、その心を本当に自分のものとして理解していない。労働者の権利など他人事に過ぎないのだ。「団結権」「団体交渉権」「団体行動権」の労働三権は、少なくとも労働組合幹部や活動家の間では基本的な知識として熟知されている労働者の権利だが、この裁判官の認識は、その常識レベルにすら達していない。

 

 個人加盟労組に加入してきた紳士がいた。さる大手損保の損害調査部門でキャリアを積んできたS氏である。そのS氏が定年再雇用となり大幅な年収ダウンになった。彼はそれを不服として闘うという。もちろん仲間たちは、その意気やよし、と彼を支持し協力を約した。S氏は「裁判官は正義の味方だから、虚心坦懐に法律を読めば、平等の原則から、年齢による差別が不当だということを十分理解してくれるはず」と主張し、法律論争中心の裁判だけに頼りたいという。それに対して、裁判を行うのは賛成だが、同時に職場にも訴え、同感を広げながら(「団体交渉権」は法的に認められているのだから)団交で会社に迫ることを本筋にすべき、という意見が大勢を占めた。彼はその意見を受け入れず仲間を振り切って裁判に持ち込んだのだが、望む結果は得られなかった。

 裁判官は神の使いではないし正義の味方でもない。むしろ、世間知らずの人々でもあるのだ。暇がかつてある裁判官出身の弁護士から聞いた話では、裁判官は市井の人々と交わることを禁止されていたという。つまり、庶民と共に居酒屋などに出入りするなというわけである。真偽のほどは不明だが、ありそうな話だ。法律は常識の延長線上にあると思うが、その常識を身につける機会を奪われている人に裁かれるんじゃたまらない。

 暇は、庶民の立場を理解し、寄り添う裁判官がいることもよく知っている。不当解雇闘争をたたかった時のこと、傍聴席が満杯になったら、急遽別の法廷を準備してくれたり、組合側の主張に熱心に耳を傾けてくれた裁判長の真摯な姿勢は今でも心に残っている。松川事件で権力のでっち上げによって死刑判決を受けた国鉄労働者たちに「逆転差戻し」を言い渡し「無罪」へと導いた門田裁判長は、全国から届いた無罪判決を願う数千数万の手紙すべてに眼を通したと伝えられる。

 

  だが、三権分立というタテマエながら、裁判制度そのものが、現代社会機構の中に組み込まれた支配システムの一環だということを忘れてはなるまい。裁判官にも制約や限界が付きまとう上に、監視されている存在だということも忘れてはなるまい。過度な期待は捨てた上で、幅広い人々と共に裁判官に「常識」を伝え続ける努力こそ、裁判闘争の本質だと暇は思う。