盛岡だより」(2023.3) 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                       時を積む

 「時は通り過ぎない。積み重なるもの」といったのは、池田晶子(哲学者・文筆家)である。

彼女の哲学からすれば、過ぎ去った時間は記憶と思い出からだけ認識され、認識しなかった時間は「無」であるとする。だから、認識された時間、すなわち記憶と思い出だけがその人の「時間」であり、それは時とともに増えていくから、「時は積み重なるもの」といっているようだ。

このことばに出会ったとき、その発想の新鮮さに少し驚き、妙に納得するものを覚えた。時間というものを彼女のように考えたことがなかったし、出社時間、電車の時刻、待ち合わせ時間、約束の期限などは気にすることはあっても、通り過ぎてしまった時間を意識することなどかったからである。

 自分には80年も生きてきた時間がある。そのなかに、どれだけの記憶と思い出が積み重なっているのだろうか。その年月を高さとするならば、積み重なった「時間」は驚くほど薄くて頼りないものである。それ以外が全くの「無」だとするなら、自分が小さく見えて、とても寂しくなる。

 

 積み重なっているものがほんの少しだとしても、遠い昔の記憶さえ一枚の絵のように細部までが鮮明に見え、暑さ寒さ、匂いや手触りまでもよみがえるものだ。

 田植えのとき、最初に入った田んぼでの素足に感じた水の冷たさと足の裏に感じた土のぬめり。水浴びに行く途中の、肌を刺す日差しと河原に響く瀬音。田んぼのあぜ道を歩くとイナゴが飛びはじける音。こたつに入って、しもやけの手がむずがゆくなるあの感覚と練炭の焼ける匂い。今でも、その風景が感覚をともなってリアルに思い出す。これらは間違いなく積み重なっている自分の時間である。

 

 加藤周一(思想家 )が、「美しい時間」というエッセイのなかで、「信州追分の村外れで見た光景が生涯忘れられない。あれは何年の何月だったか記憶にないが、あのときの感覚が今も自分の中に生き続けている。日付のない時間は自分にとっては永遠の時間である」と、そんな趣旨のことを書いていた。

 氏のいうとおりである。年も月日もまったく覚えていないが、辛く苦しかったことでさえ今では自分の「美しい時間」のように思えてくる。よみがえるそのときの光景は、一瞬を切り取った「美しい絵」のように私には見える。いつか、それらの絵を一枚一枚じっくり鑑賞するときがくれば、そのいっときの時間が、また新しい美しい時間になっていくことだろう。

 

 記憶とは不思議なものである。ずっと残っているものもあれば、あるときひょっこり顔を出したり、イモヅル式に現われたりするものだ。過去の思い出をせっせと文章にしてきた。それは無意識だったが、大事な過去を書き留め、確かな「自分の時間」として積み重ねる作業だったと気がつく。

 

  過ぎ去った時間は常に「無」と限らない。思い出したときに、それを確かなものにしておけば、「時」は後からでも積み重ねることができるものなのだ。