「盛岡だより」(2023.2) 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                  回顧の領域

 「人は老いて回顧の領域に入る」といったのは、森鴎外ではなかっただろうか。「歳をとれば自分の過去を懐かしむようになる」と解釈するのは当たり前すぎるから、もっと深い意味がありそうである。この「老いて」とはいつごろを指し、「回顧の領域に入る」とはどういうことなのだろう。

 自分の人生を、若いときとは違った目で見ることができるようになるには、それなりの経験と年月が必要であり、「回顧」には時間の余裕がないとできないものである。

 だが、今の時代、歳を重ねても自分の老後にまったく不安がないという人はそう多くはいまい。その煩わしさのために、そんな境地に入れないのが現実ではないのか。昔のように、優雅な隠居生活とはならないのである。

 私の場合、妻が逝って22年になり、その後、娘が東京の大学に行きそのまま就職してしまったから、19年間、ひとり暮らしである。日々の生活に追われて、過去に思いを馳せる時間はそうはない。たまに、遠い過去が思い浮かんでなつかしい思いになることがあっても、まだまだ人生を総括しそれを味わうような心境にはならない。80歳になり、人生の「下り坂」に入って、単に「回顧癖」が出ているだけである。

 人生を山登りに例えることが多いが、目指す山頂に到着し、後は下るだけと自覚したときから回顧の領域に入るということなのだろうか。だが、それがいつごろかとなると、その人によって違うだろう。登りも下りも早い人も、ゆっくりの人もいる。一気に登りゆっくり降りる人も、その逆の人もいる。とすると人生の頂上が60歳、70歳、80歳と人によって違ってくるだろうが、そもそも、今、自分が人生の頂上にいると自覚するだろうか。それは、ずっと後になって、あれが頂上だったと分かるものではないのか。

 領域の入り口が人によって違うとしても、今までの人生をじっくり味わえるようになれば、過去の苦労や悲しみは、ささいなエピソードに過ぎず、おしなべて満足な人生だったと懐古するようになる。そう思えてくるのが「回顧の領域」というならば、それは「悟り」に似たようなものだろう。

 だとすれば、その「悟り」に入ることができるとしても、それは人生の最後の最後になるかもしれないし、それができずに終わることだってありそうである。

人生は、後ろをふり返ることはあっても、いつも前を向いて歩き続けなければならない道である。いつも何かを考えながら、ときには迷い、判断を誤ることだってある道だが、多少の起伏はあっても、だいたいは平坦な道であるものだ。だから、何か成し遂げようとしている途中ならば、それは上りと呼んでもいいかもしれないが、人生にはそもそも頂上とか下りとかはない。敢えていうならいつも頂上だと私は考える。

 人生を登山にたとえるから「頂上」とか「下り」とかが出てくるのだ。

 鴎外がいったという「人は老いて回顧の領域に入る」とは、案外、「歳をとれば自分の過去をなつかしむようになる」と、当たり前のことをいっただけかもしれない。