昭和サラリーマンの追憶 

              

      

 

           前田 功


   当世進学事情(その2)

 

 1月・2月は、大学入試が話題になるシーズンだ。 

 筆者が学生のころの入試は、現在のような共通テスト(数年前まではセンター試験)といったような統一試験はなく、各大学の個別試験のみの一発勝負だった。私学には、推薦入試というのもありはしたが、その大学の系列高校からなどに限られていたようだ。

 国公立は私学と比べて授業料が圧倒的に安かったので志望者が多く、難易度はかなり高かった。国公立については、一期校、二期校という制度があった。試験は、一期校が3月初旬、二期校は一期校の合格発表後の3月下旬だった。だから、一期校試験でうまくいかなかったら、二期校を受験することができた。公立の一部には「1・5期」(一期と二期の間)というのもあり、受験者が殺到し、倍率は何十倍という数字だった。

 「二期校の雄」と言われた東京外国語大学・東京医科歯科大学・横浜国立大学などは、東大などに不合格になった者が多数受験した。

 

 このことに関して、連合赤軍の浅間山荘事件(1972(昭和47)年)のときのことを思い出す。

 立てこもったメンバーの一人吉野雅邦は、番町小学校から麹町中学校、日比谷高校と典型的東大コースを歩みながら、東大入試に失敗し、横浜国大に入った。

 連合赤軍のメンバーには、吉野だけでなく、横浜国大出身者が数名いた。弘前大学など他の二期校出身者もいた。国会でもなにゆえ二期校出身者がメンバーに多かったかが議論になり、学長が参考人として国会に呼ばれた。この学長はその原因が「二期校コンプレックス」にあると述べた。

(このように出身大学の学長が国会喚問される前例があるのだから、このところ続出している東大出の政治家の不正・倫理観の欠如について、東大の学長を喚問するべきではないか。)

 

 そんな経緯もあってか? 1979(昭和54)年、一期校・二期校制は廃止された。ただ、その後、同じ大学が「前期日程」と「後期日程」の2つの日程で募集人数を振り分ける「分離分割方式」が導入されている。

 

 筆者のころと比べると、入学選考の時期や方法もかなり変わってきている。

 筆者の年代の感覚では、受験シーズンというと1月~3月が思い浮かぶ。確かに、今も、共通テストが1月中旬、国公立大学の前期日程試験が2月下旬、後期日程試験が3月中旬にある。私立大学も、一般選抜は、出願が12月、試験が1~2月というところが多い。

 ただ、それは「一般選抜」についてだけであって、このところ増えている「学校推薦」「総合型選抜(旧AO入試)」は秋に行われる。これらによって、12月には、私学で定員の6割、国公立でも2割強については、合格者への通知を終えている。早慶上智でも半数近くはそうらしい。国公立は、これに共通テストも課す場合が多いが、東北大、名古屋大、九大といった旧帝大にも、共通テストなしで受験できる学部があるそうだ。

(注 AO入試とは : 「AO」は「アドミッション・オフィス=入学管理局」の略で、「AO入試」とは、出願者の人物像を大学の求める学生像(アドミッション・ポリシー)と照らし合わせて合否を決める入試である。「この大学で学びたい」という意欲が重要視される。文科省の要項によると、AO入試は「詳細な書類審査と時間をかけた面接などを組み合わせることによって、入学志願者の能力・適性や学修に対する意欲、目的意識等を総合的に判定する入試方法」とある。)

 

 もう一つ大きく変わったのは、浪人が減っていることだ。

 「4当5落」。睡眠4時間、それ以外のすべての時間を受験勉強に費やさなければ合格はない、睡眠5時間では落ちるという言葉である。浪人というのは、こういう生活をして受験のみのために、1年2年を費やすということだ。筆者の学生時代、同期の3人に2人は浪人経験者だった。しかし、最近は浪人をするのはせいぜい2割くらいだそうだ。

 

 これらの動向からは、高校の授業にまじめに取り組みつつ、部活やサークルなども楽しむといった普通の高校生活を送っておれば、受験勉強にエネルギーを費やさなくても、それなりの大学に入ることができる時代になってきている・・・ように見えるのだが、果たして素直にそう思っていいのか、若い人たちの意見を聞いてみたい。