守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


 私のギターを受け取ってくれる人

 

 一月で私も高齢者になった。急に地域自治体から「ハツラツなんとか」だの「イキイキなんとか」、「シルバーなんとか」といったインフォメーションが続々と届く。こういうのを見ると「まだ他人からイキイキさせてもらわなきゃならないほど枯れてないぞ!」と思う。

 その一方で、年長者から「まだ65歳?若いわねー!」などと言われると、馬鹿言ってんじゃないとも思う。もうとっくに平均寿命の四分の三は終わった年齢でちっとも若くない。それなのにドイツの年金は67,5歳まで待たねばならないから(63歳から受給できるが、18%引かれる)まだ生活のために働かねばならず、おまけに親の面倒も見なければならない。いずれは親子で老々介護だ。しかも労働条件や労働環境も、社会保障水準も一世代前とは比べ物にならないほど劣化している。昨年映画「Plan75」を観た時、これが自分の将来の姿かもしれないと本気で思った。若いということイコール喜びとは必ずしも言えない世の中になってしまった。

 

 正直に言うと、私は前の世代を嫉んでもいるし、恨んでもいる。今社会活動の中心となっている70代・80代の人が、自分の子どもたちを闘う人に育ててくれていたら、労働運動や市民運動がこんなに縮小しなかっただろうし、こんなにひどい世の中にならずに済んだのではないかと思う。

 かくいう私も思春期以降は、父親が天敵のように嫌いだった。労組の専従時代の父を知っている人はみんな、父を優しい人だったというけれど、家庭では仕事のストレスを妻に八つ当たりし、子どもの思想統制をする暴君だった。親の息のかからないところに行きたかったのが、独りでドイツに行った理由の一つでもある。でも、ドイツの中でも平均以上に労働条件の良い会社で働いた経験を積んだ今、家庭人としてはあまり高い評価を与えられない父親だったけれど、父が目指していたものは間違っていなかったと思うし、人が健康に楽しく働き、充分な収入を得られる社会は本当に作れるのだと確信している。

 私が小学生だった頃、父が座卓をいす用のテーブルに作り直したことがあった。釘を抜いて古い脚を外していったのだが、最後の一本の釘がなかなか抜けなかった。叩いたり、引っ張ったり、あの手この手でようやく抜き取った後、「この釘は偉い奴だ。最後の一人になっても頑張った」と言ったのを覚えている。中学生の時に一緒に釣りに行って、その場で魚を捌こうとしたら包丁が錆びていたことがあった。父は手近な岩角で包丁を研ぎながら、「刃物と権利は使わなければ錆びる」と呟いた。今振り返れば、学校では教えてくれない大事なことを伝えてくれていたのだと思う。

 読者諸氏は、子どもや孫に自分の権利は自分で守ることを教えてきただろうか.。独りきりでも抵抗し続けることを教えているだろうか。もしまだならば、今からでも子どもや孫やが社会に興味を持つよう働きかけて欲しい。人間の権利は天から降っては来ないことを教えて欲しい。戦争前夜の今、もう待ったなしだ。

 

 ピート・シーガーが晩年よく歌っていた曲「Quite Early Morning 」(夜明け前の歌)にこんな歌詞がある。

 

    And so we keep on while we live                                                  

              だから生きている限り歌い続ける                                                      

    Until we have no, no more to give

                もう何も与えられなくなくなるまで

    When these my fingers can strum no longer

                        もしこの指が動かなくなったら

    Hand the old banjo to the young one stronger

                この古いバンジョーをたくましい若者に譲ろう

 

 ピートは90歳の記念コンサートでも演奏したけれど、私が歌の活動ができるのはあと10年か、もしかしたらもっと短いかもしれない。ペシミズムでもセンチメンタリズムでもなく、冷静に考えてそうなのだ。いつか私のギターを受け取ってくれる誰かを見つけることが、これからの課題だと思っている。