「盛岡だより」(2023.1) 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


 

         ヒトから人へ、「ひと」から人間に 

 

 本紙11月号を読んだ埼玉の友人が、「人」を「ひと」とひらがなで書いているが、なぜなのかと聞いてきた。これは自分の感覚的な問題だから口頭での説明は難しい。私の答えに友人は「分かった」とは言ってくれたが、今度は私の方が気になった。

 本棚から本を適当に引っぱり出し、文中の「ヒト」「人」「ひと」を探した。生物学的な意味でそれを指す場合は、「ヒト」と記していることがほとんどだが、詩歌や小説では、「人」と「ひと」が混在している。

 歌の題名でも、都はるみが歌った『好きになった人』(作詩・白鳥朝詠)は「人」だが、鶴岡雅義と東京ロマンチカの『小樽のひとよ』(作詩・池田充男 )はひらがなである。作詞家にそれなりの考えがあるのだろうが、最近の小説などはひらがな表記が増えているような気がする。

 

 私が、文章の中でそれを書き分けるようになったのは、そう古いことではない。

 何の気なしに読み、何も考えずに書いていたが、ある小説家の作品を読んでいて気がついた。その小説家とは、代表作『みおつくし料理帖』で有名な髙田郁である。

 彼女は、山本周五郎に心酔して小説家になったほどで、人情の機微に触れた作品が多い。私が読んだ最初の作品は『出世花』(祥伝社文庫・2008年)」で、それからずっと追いかけて読んでいる。どの作品でそれに気づいたのかはっきりしないが、どうやら彼女は、頭数(あたまかず)を指すようなときやまったく知らない人のときは「人」で、よく知っている特定の人物は「ひと」と使い分けているようであった。

 辞書の「人」の項では、一番先にあるのが「サル目ヒト科の動物」「出生から死亡までの自然人」とかで、「人格をもつ一個人」はその後にでてくる。私が文章の中で「人」と書くと、まず思い浮かぶのが「サル目ヒト科」で、どうも違和感があってしっくりこなかった。

 生物学的に指すときは「ヒト」と書いた方が、無機質な物体をストレートに指すようで分かりやすい。漢字の「人」となると一般的な人をイメージするが、ひらがなで書くとその柔らかさからか、人格と感情をもった人間のように思えてくる。この書き分けで自分の違和感もなくなった。

どちらでもよいではないかと言われればそれまでだが、これは私のこだわりである。

 

 ヒトが人に、人から「ひと」になるのはなりゆきである。社会生活を営む上での人間となると、本性である「人間性」を持ち、「知性」や「理性」を保有していなければならない。

 今の世の中、秩序が乱れて混乱状態にある。気候の変動で干ばつや森林火災、豪雨災害が世界中で頻発し、その対策も遅々としてすすまない。ウクライナは元々ロシアのものだったから取り返すと勝手な言い分で戦争をしかけ、台湾は中国のものだから手を出すなと軍事で脅す。攻められるといけないから軍事費を大幅に国民負担で増やそうとする。

 政治権力にカルト教団の手が延び、政治の中枢にいた政治家たちがそれを利用していた。ネットでは誹謗や罵倒が飛び交う。

私には、人の本性がむき出しになって知性と理性を失った時代と思えてしようがない。末恐ろしい時代になったものである。

 

 「人」が「人間」になるのは難しい。決して、なりゆきでは「人間」にはならないのである。いっしょくたに、「人間」は、などとは書けなくなった。