昭和サラリーマンの追憶 

              

      

 

           前田 功


   能力主義の残酷さ

 

 「分断」が問題となっているアメリカの中間選挙が終わった。日本の新聞やテレビは、「トランプが勝たなくてよかった。ほっとした」「あんな無茶苦茶な奴を大統領にしたアメリカの国民には困ったもんだ」といった論調だ。

 トランプの推した候補は思ったほど支持はえられなかったが、それでも、共和党と民主党の勢力は伯仲している。「分断」が解消されたわけではない。

 トランプは彼への支持の多くを、非大卒の貧しい白人から得た。この20~30年の社会の変化の中で「負け組」となり、不満が溜まっている人たちだ。こうした人たちの感情の鬱積がトランプを支える原動力になっている。

 リベラルエリートからすればこの人たちは「無知で閉鎖的な排外主義者」であり、貧しい白人からすればリベラルエリートは「自国の仲間より他国のエリートを優先するいけ好かないヤロー」になる。

 

 マイケル・サンデル教授は、2016年にトランプが大統領に当選したころを分析し、この「分断」の原因は、メリットクラシー(Meritocracy)の独裁にあると、その著「実力も運のうち 能力主義は正義か(原題「Tyranny of Merit . What’s Become the Common Good(メリットクラシ―の暴政)」の中で述べている。

 (なお、巻末の「解説」によると、「能力主義」と訳しているが、「功績主義」としたほうがよいかもしれない。「能力主義」というと、ある人の内部にあらかじめ備わった「潜在的能力」が想定され、場合によると、その人のもつ才能=本質まで示唆してしまうこともある。それに対して、「功績主義」の方は、その人の才能だけでなく、運や人脈まで含めて、とにかくその人が動員できたものすべてによって得られた結果や成果の方に焦点が当てられるから。)

 

 現在のアメリカ社会には「人は能力に応じた成果を得るべきであり、失敗した人は努力が足りない」という能力主義的価値観が蔓延しているが、それが「分断」を引き起こしている。

 

 能力主義は、「誰だって努力と才能があればのし上がれる」という、出世あるいはアメリカンドリームのレトリックで、平等であることを標榜している。レトリックとは、言葉巧みに表現することだ。つまり「出世のレトリック」は、誰もが納得しやすい出世のルールを提示し、一見して平等だと思わせてしまうところに問題がある。

 今日、アメリカでは、性別・人種などによるさまざまな差別が許されないものとされ、自由と平等が謳われているが、出自によって得られる「何か」が間違いなくある。実際には所得が高い家庭の出身者ほど、高学歴の人が多いという事実がある。もちろん貧困層を脱して富裕層へ登るという人が全くいないということではない。しかし、サンデル教授によれば中流階級にも届かないことがほとんどだ。そうなると「だれもが才能と努力の許すかぎり出世できる」というのはウソだと言うことになる。このウソを職場や日常生活の中で体感した上記非大卒・低所得の白人たちは、所得が高い女性や他国から来た人たちに自分たちの世界を占領される恐怖を持つことになってしまった。

 

 それをうまく取り込んだのがトランプだった。まさしくポピュリストそのものだ。そして、社会的経済的に優位に立つエリートたちが「まさか!」と思った、「トランプ大統領誕生」だったのだ。

 性差別、人種差別がよろしくないことは、今では世界の共通認識になっているし、現にそういった不均衡をなくす方向に(まだまだ道半ばとはいえ)世の中が動いているのは間違いない。

 性別や人種など属性による差別を廃して機会平等を実現したとしても、大学入試から就職試験まで「競争による選別」はなくならない(競争があるから機会平等が必要だともいえる)。

 属性や社会階級によって競争の優劣をつけてはいけない。あくまで見るべきは本人の「実力」なのだ、というのが「実力主義」「能力主義」の考え方だ。

 

 ただ、この考え方は、自己責任論に直接結びついてしまうという困った側面がある。自己責任論は勝者にとっては魅力的だ。なぜなら「私の成功は私が勝ち取ったものだ。だから、その成功による利益は私のものだ」ということができるのだから。

 しかし、敗者にとっては、残酷なものになる。「あなたの失敗はあなたのせい」「あなた自身の責任」ということになるからだ。

 このように能力主義は、勝者に、ある種の傲慢さ、謙虚さの欠如、そして自分の力ですべてを達成したという考えを生み出す。一方、敗者には屈辱感を与えてしまう。 

 ここに分断が生まれる。「分断」の解決方法は、恵まれた者=勝者が考え方を変え、もっと謙虚になることだ。

 敗者は、もともとの才能に恵まれず、努力しようにも、その環境にも恵まれなかった。

 勝者が、勝者となるために大変な努力をしたことはわかる。しかし、もともと高い才能を持って生まれ、親や家庭など努力できる環境にも恵まれた。運がよかったのである。

 努力することができるということも天与の才能かもしれない。それらに恵まれたというその幸運に感謝する気持があれば、驕りはなくなり、謙虚さも出てくるのではないか。