「ジャニーズ事務所」に似ている日本球界は、選手が声をあげるべきだ
玉木 正之
たまき・まさゆき スポーツ文化評論家,日本福祉大学客員教授。著書に『スポーツとは何か』(講談社現代新書)など多数。近刊は「真夏の甲子園はいらない 問題だらけの高校野球」(編・著、岩波ブックレット、2023年)
タレントに罪はない――とは、「ジャニーズ事件」に関するジャニーズ事務所の記者会見の後、どこからともなく聞こえてきた言葉である。
本当に、そうだろうか?
確かにローティーンのうちに故ジャニー喜多川氏から性被害を受けた方々に罪などあろうはずがないのは確かだ。
しかし、そのうわさを耳にしたり、話を聞いたりしながら口をつぐんでいたタレントたちに「罪はない」とは言えないだろう。沈黙は肯定と同じ。共犯者とは言えなくても、何らかの発言や質問や抗議があっても良かったはずだ。
何故そんなことを書くのかと言うと、スポーツ界にも似た事情があるからだ。性犯罪ではないが、スポーツ組織やイベントのあり方について、誰もがオカシイと思いながらも、誰も口に出さない(出せない)ことがあるのだ。
たとえば日本の野球組織。プロと社会人と大学と高校、さらに中学以下、学童やボーイズリーグ、リトルリーグの組織がバラバラ。プロは読売、社会人は毎日、高校は朝日の各マスメディアに支配され、女子野球も別組織。スポーツ組織として明らかに異常で、日本の野球も、サッカーや他のスポーツ組織のように、一つの組織にまとまるべきだ。
そのような「正論」は04年プロ野球の「1リーグ化再編騒動」からストライキが起きたとき、選手会も口にしていた。が、やがて消えてしまった。
このような組織の問題は、本来ジャーナリズムを担うメディアが指摘するべきだが、メディアが異常な現状を推進しているのは、「ジャニーズ事件」の構図と似ている。
来年からプロ野球の二軍は新球団が2球団増える。ならば未来のプロ野球はどうなるのか? どうなるべきか? メディアが口をつぐむなら選手たちが発言すべきだろう。
社会の調和と安泰に必要な五常の徳は、「仁・義・礼・智・信」だと儒教が教えている。なかでも重要なのが「仁」と「義」である。それは人間が守るべき道徳で、礼儀上なすべき努めのことである。日本人が大切にしている基本的な価値観でもある。
10月10日、公明党は政権を離脱した。
公明党は連立維持の条件として「靖国神社参拝」「裏金問題の解明」「企業献金問題」の対応を連立維持の条件としていたが、これらに対して自民党から明確な回答がなかったからだとしているが、自民党は「一方的に告げられた」と言っている。
私は、公明党が連立の条件を出したとき、その条件に一瞬「今さら?」という気がした。連立を組んで26年、その間、それらは何度も問題になったはずである。それを容認(?)してきたのに、なぜ、今になってそれを頑なに主張するのかと思ったのだ。だが、それは、民意に押されているからだと好意的に解釈していた。
自民党の党大会で、高市早苗が総裁になり、麻生太郎が副総裁になった。常識的に考えると、新総裁はいの一番に連立を組んできた公明党に挨拶に出向き、その上で「今後、どうしましょうか?」と相談するのが筋であろう。
だが、そうではなかった。高市と麻生が最初に会ったのが、国民民主党代表の玉木雄一郎だったのだ。当然、政権協力の話をしたのだろう。
「仁」と「義」に続くのが「礼」である。これも日本人の基本的な価値観で、日本人はこれらに欠ける人間を徹底的に嫌う。
自民党は、支えてくれた公明党に「仁義」も「礼節」も示さなかった。公明党からすればそれは侮蔑されたことであり、屈辱と怒りを感じたはずである。私だって相手がそういう人間なら、さっさと見切りをつけて縁を切るはずだ。
1973(昭和48)年『仁義なき戦い』という映画があった。シリーズで5作創られ、1999(平成11)年「日本映画遺産200」にも選ばれている。
ヤクザを主人公にしているが、ヤクザ映画でも任侠映画でもない。義理と人情、恩義と裏切り、愛と憎悪、怨念と殺戮を描いた群衆活劇で、戦後日本の暗黒社会を描いていた。
石破首相の退陣から総裁選、新総裁誕生と今までの政局をみていると、権力を握るための打算と工作、陰で暗躍する長老たちばかりが目につく。映画は「仁義なき社会は抗争を生む」といっていたが、自民党内部はまるでこの映画のようである。
かつて、自民党と有権者は、政策より義理と人情でつながっているといわれていた。そのころの自民党には、まだ「仁・義・礼」もあったということだろうが、今はカネがすべてのようだ。「五常」の残るは「智(道理をよく知り、知識が豊富)」と「信(情に厚く真実を告げ約束を守る)」だが、自民党はそれさえも失ってはいないか。