「盛岡だより」(2023.10)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
科学と信義
ある人が、家で出た生ゴミを細かく刻んで道路に捨てた。近所の人たちがそれをやめてと訴えた。その人はこう応えた。
「生ゴミですからいずれ腐って土になります。人体にはなんら影響がありません。それは科学的に立証済みです」
「庭に埋めるとか、堆肥にすると他の方法はないのですか」
「これ以外に方法がありません。これが最良の処分方法です」
これで近所の人たちが納得するだろうか。
福島原発事故で発生した(アルプス処理された)汚染水を海洋放出に至る政府の対応はこんなものではなかったのか。政府のいう「科学的に立証済みです」とは、IAEA(国際原子力機関)の、報告書を指すのであろう。
処理水の放出は、漁場の近くではないところで、放出したものを再び取り込まないところ。それで1キロ先の海となったようだ。だが、私は「放出する前に薄める」という理屈が分からない。1リットルに含まれるトリチウムの量は、さらに海水を加えても、含む量は変わらないはずである。30年近くかけて流すというが、時間をかけるだけなら少量ずつ流せば良くはないのか。それとも、1キロ先は近すぎるからなのか。そもそも、この処理方法が最善なのか。その言及はない。汚染水に限っていえば、アメリカのスリーマイル島の事故では、住民の反対で河川に流すことは断念し、蒸発させる方法で処理している。
その報告書には、「処理水の放出は日本政府が決定することで、この報告書はその方針を推奨するものでも承認するものでもない」と書いている。さらに、IAEAのグロッシ事務局長は記者の質問に、こうも答えている。
「日本政府は私たちのところに『処理水の扱いをどうしたらいいか』とは聞いてきていません。日本政府は基本方針を持っていて、その方針を評価してくださいと言われただけです。ですから、処理方法について他の案もあることは知っていますが、それについては検討・評価はしていません」
要は、IAEAに、こう処理したいから「お墨付き」を下さいと頼んだだけで、刻んで道路に捨ててよいかどうかは評価していないのである。
日本は、そのIAEAに年71億4000万円拠出し、職員も派遣している。その国にNOの判定は出しにくいと考えるのは「下衆の勘繰り」だが、「そうともいえない錦の御旗」を水戸黄門の「印籠」のように使うのはいかがなものか。国民と近隣諸国との亀裂が深まるなかで、それを掲げて突き進むのは危うくはないか。
「信義」とは、約束を守り相手に対して道義的な務めを果たすことをいう。
政府は、2045年までに廃炉にする計画だった。だが、汚染水の放出は2051年までかかるという。汚染土の処分場も決まっていない。800トンもあるデブリは10年以上経っても、取り出し方さえ見つかっていない。取り出せたとしても、それをどこでどう処理するのかも分からない。最終処理までには、100年はかかるという科学者もいる。原子力科学の現状はまだその程度なのである。なのに政府は、その場しのぎに「科学」を絶対視し、国民には「問答無用」の態度をとっている。
汚染水の海洋放出は、「漁業関係者との合意のうえ開始する」と約束していた。しかし、総理は「放出期日」を通告するだけに福島に行き、約束を反故にした。近隣諸国の理解を得る外交努力はどうなされたのか。論議の過程と各種データはすべて開示したのか。地元の人たちとは何度真剣に話し合った結果なのか。不十分なそれを棚にあげて、笑い顔で魚を食べてみせ、「福島の魚を食べましょう」と呼びかけたりする。私はその政治感覚も疑うが、政権には約束を守り、人としての務めを果たすという「信義」そのものがないようである。
事故から10年間で、少なくとも13・3兆円の費用がかかっている。あとどれくらいかかるか予想もつかない。おそらく天文学的数字になるだろう。その費用はいったん国が建て替え、その後は何十年にも亘り税金で補填することになる。
原発事故の処理は、世代を超えた「深刻な国家的課題」である。だが、国はそれをできるだけ小さく見せて、場当たり的な説明でやり過ごそうとしている。国民は、そんな「信義なき政権」を信用・信頼するはずがない。
政権がこのような態度をとるかぎり、国民との溝がますなす深まるばかりで埋まることはない。これで、日本という国の秩序は保たれるのか。日本の将来はどうなる。