守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


 新型コロナ感染症は止まるところを知らない。

 職場でもまた陽性者が出て、ぎりぎりのスタッフで何とか仕事を回している。フードバンクの来場者も一向に減らない。それどころか、第七波や物価高で生活困窮者がもっと増えてしまうのではないかと危惧される。このところ歌の仲間も次々に感染し、毎週誰かが欠けている。

 

 いったいこの三年間政府は、何をして来たのだ。憲法25条2項には「国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と書かれているのに、三年前と変わらず保健所や医療機関が過重労働を強いられ、感染しても入院できなかったり、経済的、精神的に追い詰められたりする人がいるのは憲法違反ではないか。さらには、コロナをインフルエンザ並みの感染症5類扱いにするとか、感染者の全数把握をやめようとか、基準を下げて対策の手を抜こうとするのは政府の責任放棄だ。

 

 この「基準を下げて表面を取り繕う」というのが自公政権の特徴で、日本の社会を劣化させてきた元凶だと私は思う。憲法9条が現実にそぐわないから変えるという論法がその典型だ。憲法は理想なのだから、現実にそぐわなくて当たり前なのだ。だからこそ理想に向かって一歩一歩努力するのだ。憲法25条1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」だって今現在守られてはいない。だからといってこれを無くしてしまっていいわけがない。理想を現実に合わせて引き下げてしまったら、もう改善も向上もなくなり、経済も社会保障も、そしてモラルも凋落するしかない。だから公文書改竄やデータの捏造が起きたのだ。その「小手先ごまかし政治」を当たり前のようにやって民主主義を破壊してきたのがアベ政権だ。国葬に法的根拠がないばかりでなく、安倍晋三がそんな栄誉に値する人物だったとは到底言えない。

 

 でも、国葬と旧統一教会問題が取り沙汰されるようになってから、私たちの活動に好意を示してくれる人が増えたと感じる。

 7月の茱萸坂では若い女性が飛び入りで一緒に歌ってくれた。写真を撮らせてほしいと笑顔で言ってきた女性もいた。

 父の命日に納骨堂に行ったら、偶然居合わせた高齢の女性が私のリュックサックについている「護憲」のバッジを目にとめて話しかけてきて、このあと国会議事堂前に行くと言ったら『頑張ってください』と声援を送ってくれた。

 8月の官邸前抗議では、小学生くらいの子どもを連れた女性が通りの向こうから手を振ってくれたし、40歳くらいの男性が会釈をして通り過ぎたこともあった。国会議員会館前の総がかり行動にも、若い仲間が二人多忙を押して駆けつけてくれた。

 

 市民の中に怒りはじわじわと広がっていると思う。今は声を上げていない人でも、心の中では何かがおかしいと気付き始めているに違いない。コロナには気を付けなければならないけれど、夏バテなんて言っていられない。統一教会疑惑追及の手を緩めまい。アベ礼賛抗議の声を上げ続けよう。

 国葬をやったら、それが岸田政権の墓穴になることを思い知らせてやろう。