「盛岡だより」 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイストクラブ会員・日産火災出身)


 

           《岩手の小説家》  及川 和男

 

 

 

小説『子育てごっこ』の著者・三好京三氏に誘われ、岩手日報社発行の文芸誌『北の文学』に顔を出すようになった。その編集委員に及川和男氏がいた。

氏は、勤務の傍ら小説を書き、雑誌『民主文学』を中心に活躍した。そこに連載した長編『深き流れになりて』で、1975多喜二・百合子賞」を受賞している。

貧困にあえぐ豪雪地帯の岩手県沢内村を、1歳未満や60歳以上の医療費無料化を実現させ、乳児の死亡をゼロにするなど、生命行政に尽力した当時の村長深沢晟雄の生涯を描いた1984年初版の『村長ありき 沢内村深沢晟雄の生涯』は、映画にもなり、今でも多くの読者に共感と感銘を与えている。

 

私が氏を知ったのはずっと前である。氏が勤めていた岩手銀行従業員組合が分裂攻撃を受け、第一組合で活動していた氏に労働学校の講師をお願いしたことがある。「文学運動だったら話せるけど、労働運動はな……」と断わられたのがきっかけだった。氏が専業作家になる直前だったから、1976(昭和51)年のことではなかったろうか。合評会後の懇親会で、そのことを話すと「そんなことがあったな」と覚えていてくれた。

 

『北の文学』は年2回発行していたから、年2回はその合評会で会っていた。氏の評は辛口であったが、お酒が入ると誰にでもていねいに小説の手ほどきをしていた。私は主に随筆を書いていたが、「小説も書いてくださいよ」と何度も勧められ、そのおだてに乗って書いた50枚の小説が入選した。他の編集委員の評は惨憺たるものだったが、氏は勧めた手前もあるのか、まあまあの評だった。

明治33年、私の地方で昔から頻発していた「水争い(用水の争奪戦)」を、農家を継いだ若者の目をとおして書いた小説で、川を挟んで対峙した群衆が衝突寸前の場面だった。その中で、(見上げる山の上に白い半月があった)と書いた。

「野中君。この夜の月はほんとうに半月だったのかい」

氏の質問に、私は答えられなかった。

「ちゃんと調べて書くように。ちょとした間違いが小説をだめにする」

と叱られた。たった16文字である。その指摘も痛かったが、しっかり読んでくれていたことがうれしかった。調べると、その夜は新月に近かった。

仲間と飲むとその話がでてくる。「あれは、やられたね」と同情してくれるが、すぐに「そうなんだよな。ものを書く構えのようなものを教えられたね」と、いつもうなずき合っている。

 

2019(平成31)年3月10日、85歳で亡くなった。

葬儀に出かけたその日は、時季としてはめずらしい大雪の日だった。葬儀を待っているとき、誰かが「及川さんが泣いている」と言っていた。

 後日の「偲ぶ会」が地元一関市で開かれた。私は、この16字のことを披露し、『北の文学』に高校生のときから参加していた彼女は、「小説を1から教わった」と涙を流した。彼女は、そのときすでにプロの作家になっていた。