暇工作「生涯一課長の一分」

           説得に来た部長の民主主義論


 アベさんが凶弾に倒れた事件を「民主主義に対する挑戦だ」とする言説には違和感がある。作家の高村薫さんなど多くの識者たちも疑問を呈している。というのも、彼が民主主義の旗手だったという認識がないからだ。モリ、カケ、サクラ、安保法改定など、アベさんはむしろ憲法や民主主義を蔑ろにする人ではなかったか。

 「選挙という民主主義の根幹を揺るがす事件だ」というが、果たして今の選挙制度は本当に民主主義の「根幹」と呼ばれるほどの内容を伴っているのだろうか。多くの死に票を生み、民意を反映しない制度をつくって、反対党だけでなく自党の候補者さえ、カネと人事で統制支配してきたアベさんのやり方は、とても「民主主義の根幹」だなどと言えたものではない。

 

 暇は、この「民主主義」論に接したとき、かつて全損保に第一次の組合分裂攻撃が行われたときの、分裂推進派の理屈を想起してしまった。当時、分裂推進派は「企業の中で複数の労働組合をつくってはいけない」から「企業内の分裂反対少数派は分裂賛成の多数派に従わなければならない」という理屈を振りかざした。「それが民主主義だ」と。この理屈はもちろん手前勝手である。多数派と少数派の土俵を「産業別労組」ではなく「企業内労組」としている。民主主義の都合のいい使いまわしである。

 

 アベさんがカネや人事権という権力を武器に、党や政府、行政機関などを支配統制したと同様、組合分裂推進派の「力」の背景にはもちろん会社の人事権などの強力なバックアップがあった。民主主義を旗印にするなら、せめて、会社と分裂推進派の癒着は表向き隠すべきだったはずだが、彼らは白昼、堂々、であった。分裂反対派にはあからさまな配転や勤務評定ダウンが待っていた。それを公開することで、職場の萎縮を狙ったのだ。もちろん、民主主義とは対極の考え方である。

 そのなかで、思わず笑ってしまうような民主主義論に出会ったことがある。分裂反対派の暇のもとへ、某部長が説得にやってきた。「決して会社の差し金で来たわけではない」「以下述べることはすべて私の個人的意見だ」などと長々しい言い訳的前振りがあったあと、「要するに、暇くん。これは民主主義の問題なんだよ。仮に君たちが正しいとしても少数ではなにもできまい。少数は多数に従え、これが民主主義だ。要するに長いものには巻かれろということさ」。

 部長さんは社命を受けて必死だったのだろうが、民主主義を持ち出したのがまずかった。それさえなければ、暇としてもそれなりに上司の部下を想う「温情」を感じたかもしれないのに。少数が多数に無条件で従ったり、強いものに対して無批判でいることこそ民主主義だと言われれば、暇としては、それこそ民主主義の精神に反することだと反論せざるを得ないではないか。