斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」


 

 

         マスクと政府への不信感

 

  街は相変わらずマスクを着けた人であふれている。新型コロナの感染が下火になり、5月20日には政府が、屋外であまり会話をしない場合は不要とする見解を発表。直後の朝日新聞の世論調査でも、「(人と距離を取れる屋外では)マスクを着けなくてもよい」と答えた人が55%で、「着けるべきだ」の42%を上回った。なのに1カ月以上を経た現実風景はかくのごとし、だ。

 コロナ禍の2年半で、マスクはもはや「顔の一部です」と苦笑する人がいる。「下着みたいなもの。外されたら目のやり場に困る」などという人も。諸外国とはえらい違いだ。

 きわめて日本的な現象で、またぞろ「同調圧力」の強さが背景にあると論じられることが多い。実際、人通りの少ない道を歩く時は外している私も、わずかでも人のいる場所では、つい着けてしまう。同調圧力の大本は「従順さ」や「自立心のなさ」か、自ら口をふさぐ行為は「言わザル宣言」でもあるかな、と屈辱を感じながら生きる日々である。

 もっとも最近、マスク人間だらけの世の中には、別の意味もあるのかもしれないとも思うようになってきた。大方の人々が政府をまったく信用していないことの結果でもあるのではないか。

 コロナ真っ盛りでの東京五輪強行を振り返れば、すべては明白だ。この国の政府からは、国民の命を守ろうとする意識がまったく伝わってこない。自助努力以外には身を守る道がないと、誰もが承知してしまっているような――。

 折しも6月17日、福島第1原発で被害を受けた住民たちが国に損害賠償を求めた集団訴訟で、最高裁は国の責任を認めない判決を言い渡した。津波対策を講じてもムダだったから、という趣旨だった。

 ならば原発政策の一切合切が国の責任でなければつじつまが合わない道理だ。あからさまな矛盾に、しかし最高裁は頬かむりだけをして済ませていた。