今月のイチオシ本


      『平安京の下級官人』倉本一宏(講談社現代新書)

               

                       岡本 敏則

 


 『新古今和歌集』編者の一人、藤原定家(最終官位正二位権中納言)は藤原北家(藤原鎌足の二男房前を祖とする)御子左流で、主家の九条家(5摂家の一つ、ほかに近衛、鷹司、一条、二条)の家司として出仕していた。若い頃は早朝九条家の邸第へ行き、蔀戸を開けることを日課としていた。下級官人は「下衆」(げす)、庶民は「下人」(げにん)と呼ばれていた。

 

 ◎住居の広さ=当時、公卿(従三位以上・太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)クラスの邸第は一町(120m)四方(4400坪)が標準であった。中には4町(18000坪)という邸第もあった。4、5位の中級貴族は半町、6位以下の下級官人は4分の1町が標準とされた。庶民の単位は戸主(へぬし)と呼ばれ、広さは約450㎡(140坪)を標準とした。しかし実際は細分化され、10世紀半ばには戸主制は衰退し、町屋が二条大路以北に成立した。

 

 ◎下級官人=三位以上を上級貴族とすれば四位、五位は中級貴族、六位以下は下級官人となる。では下級官人はどういう職に就いていたか。太政官では事務局である史以下、八省や中宮職のような上級官司では判官の丞や進以下、大学寮などの中級官司では次官(すけ)の助以下と定められていた。さらにその下部には、大内裏や宮廷の警護に当たる衛士(えじ)や近衛などの下級武官、各官司や王臣家・寺社などの雑役に従った仕丁など多くの非常勤下級官人や庶民が、宮外官司や厨町の内部や周辺に居住していた。権力の座にある摂関を支えてきたのはこのような実務官僚であった。これらの下級官人たちも職場や儀式の場では上位の貴族に平身低頭してこき使われながらも、一応は貴族社会に連なる一員として、周囲の下人や家族には誇りをもって接していたのだろう。

 

 ◎源義経の場合=元暦元年(1184年)正月に源義仲を滅ぼして入京した後、8月には左衛門少尉(さえもんのしょうじょう 正七位)に任じられた。少尉は三等官の判官ということで、義経は「九郎判官」(ほうがん)と呼ばれることになる。同時に義経は検非違使宣旨も蒙っている。平家を滅亡させた後伊予守に任じられた後にも、この地位にとどまっている。頼朝が怒ったのは、勝手に任官したことよりも、義経が検非違使となったことが原因なのであろう。数多くの随兵を擁して京都を公的に牛耳れば、その政治力や後白河院に対する影響力は、はかりしれないものとなるからである。

 

 ◎傭兵としての武士=摂関期の貴族は血を流すことを極端に忌避したのであるが、紛争の解決を武力によって解決しなければならない場合もあった。上級貴族の中には、強力な武力である満仲流の清和源氏や、貞盛流の桓武平家といった「都の武者」を家人として抱えている者もあった。人を殺したり傷つけて血を流したり、また神仏に矢を射かけることも厭わない、そういった職能を上級貴族(後には王権)から請け合う連中、というのが、武士というものの本来的な姿のであろう。

 

 ◎子女の死=子女を失った悲しみは平安貴族も現代の庶民も変わらない。特に子女の死は、当時は名前(諱―死後に送る称号)もつけられないまま幼年で死去した場合は葬礼も行わず、墓も造られない。正暦元年(990年)7月11日、藤原実資(さねすけ 従一位右大臣 日記『小右記』作者)の女児が死去した。実資は悲嘆、泣血し、悲慟に堪えなかったと日記にある。七歳以下の葬送は厳重にしてはならず、遺体は穀織という薄織物を衣とし、手作布(簡単な手で織った布)の袋に収めて桶に入れ、13日に雑人2、3人に命じて東山の今八坂の東方の平山に置かせた。翌14日、女児のことを思って心身不覚になった実資は、悲嘆に堪えず、人を遣わして遺骸を見に行かせた。しかし、すでにその形はなかった。その遺体は犬か鳥に食われてしまったのか、それとも何かの薬の原料として持ち去られたのであろうか。悲しい目に遭った実資ではあったが、将来天皇の后妃として入内させる女子は必要ということで、8月になると僧を延暦寺や長谷寺に遣わし、女子誕生の祈願を行なっている。

 

 ◎下級官人という存在=古記録を読んでいると多様な階層の下級官人たちの存在である。宗岳(宗岡)氏というのは本来は「ソガ」と訓んだ。あの蘇我氏の末裔である。また。「・・・部」という氏は大化前代以来の伴造(とものみやっこ)氏族の末裔だろう。地位を低下させながらも、様々に職を替え、よくもこんな時代までも生き残ったものよと思う。有力者とのわずかなツテを求めて右往左往するという、ずる賢くて嘘つきで小心な下級官人の姿は、官人社会しか職業が選択できない彼らにとっては、生きるためには必要な手段であった。下衆や下人は、実は我々みんなのご先祖様だったのである。