守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


  久しぶりに新宿駅西口前を通って驚いた。

 また路上生活者が増えている。高齢者も若者も、少なからぬ数の女性もいる。ほとんどの人がアベノミクスという無謀極まりない経済政策による格差社会の犠牲者だろう。今月のフードバンクにも130名を超える来場者があった。一向に減らないばかりか、この物価高騰でさらに増えるかもしれない。

 その不幸の原因を作った安倍晋三元首相を税金を使って国葬にするという。

 確かに銃撃というまるでアメリカのような事件には、私も少なからず衝撃を受けた。誰の命も暴力で奪ってはならないのはもちろんだ。しかし、あの人が首相にならなかったら、あんなに長く在任しなかったら、路頭に迷ったり、線路に飛び込んだりしなくて済んだ人がたくさんいたであろうことも確かだ。

 

 でも、私がさらに驚いているのは、安倍元首相の死に涙を流したり、献花に訪れる市民があんなにもたくさんいることだ。メディアが突然の死をもって殉教者のように礼賛するであろうことは容易に想像できた。同情票が選挙に影響するだろうことも予想できた。でも、あんなにたくさん?赤木俊夫さんや、バス停で殴り殺されたホームレスの女性に涙する人はほとんどいないのに?

 私の目には、特別政治に関心があるわけではない市民の感情までもがメディアによって操作され、行動がパターン化しているように見える。テレビやネットの情報で、「感動!」とか「激怒!」、「号泣!」といったお決まりの表現ばかりを見るうちに、本当の自分の心のありようとは無関係に、『こういう時には感動するものなのだ』とか、『今は悲しむべき時なのだ』といったように学習してしまったのではないだろうか。みんなと同じパターンで行動しておけば無難だし、人から責められもしない。非業の死を遂げた人を悼む自分は善人であると信じられる。そういう人にとって献花や弔問は、一種の癒しのイベントであるのかもしれない。多数の中の一人になることで、自分自身の安心が得られるからだ。私が危惧するのは、それが『赤紙が来たら名誉だと喜ぶものだ』、『壮行会では生きて帰って来るなと言うものだ』、『死ぬときには天皇陛下万歳と叫ぶものだ』と教え込まれパターン化した戦争中の人々の行動様式と同じではないかと思うからだ。

 

 政府は民主主義を守り抜くなどと言っているけれど、最も民主主義を壊してきたのは当の安倍元首相ではないか。国葬に値する人物だったとは到底思えない。弔意は個々人が自発的に表現するものだ。愛国心の押し付けと同様、国が国民に弔意を強要することこそ民主主義の破壊だ。国葬にではなく、生活困窮者を救うことに税金を使え!