「働く」はみんなのもの

 

    シフト労働の闇(8)

     

    ジャーナリスト 竹信 三恵子


  偏在する青白い顔

 

 いま、ネット上で「コロナ禍が炙り出した女性の貧困の深刻」という連載を執筆中だ。取材していて、ぎょっとすることがある。収入の激減や失職に見舞われた彼女たちの働き方のあちこちに、不意にシフト労働が姿を現すからだ。

 販売員だった20代の正社員女性は、コロナ休業で13万円しか支給されず、生活できずに事務パートに転職した。だが、ここにもコロナの影響が及び、シフトが減らされて月収は18万円から11万円に落ち込み、ついに派遣労働に移る。

 大手企業の契約社員の30代女性は、新人の教育まで担当して職場の柱として働いてきた。だが、会社の都合次第で「来月はシフト入らないから」と言われて収入はゼロに。そのたびに水商売でしのぐ日々だ。

 「パート」「契約社員」と聞くと「低賃金の固定した雇用が続き、契約期限がきたら雇い止め」という状況を連想する。このような「安定した不安定雇用」に対し、コロナ禍の女性たちに目立つのは、じわじわと就労時間数が減らされて収入も減り、いつのまにか生活できなくなっていたという「不安定な不安定雇用」だ。その元凶がシフト制。

 トルストイの短編に、困窮する人々を施しで支える善良な老人が登場する。これらの人々は実は姿を変えたキリストである。老人の耳元で「あれらは私だよ」というキリストのささやきが聞こえて物語は終わる。

 シフト労働はこれに似ている。それは、契約社員、パートといった従来型非正規労働に潜り込み、突然、姿を現しては「あれらは私だよ」とささやく。

 シフト労働といえば飲食業、といった固定的なイメージにとらわれがちだ。だが、シフト労働の青白い顔は貧困のあちこちに遍在している。非正規雇用の静かな激変が、そこにある。